真鍮の止まり木

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2019年2月17日の記録

たまに、家族から受けた言葉を思い出すことがある。大体いつも、精神状態が不安定になったとき、彼女・彼らから言われた内容を思い出す。

あれらは、「呪いの言葉」だったのだと、今ならわかるのに。あれらはすべて、私を「普通の人」に矯正するための言葉だった。ただそれだけだったのに。

「望ましい妹」という姿であれ、という圧が常にあった。つまり、愛嬌があって、容姿も可愛くて、適度に馬鹿で、適度に抜けていて、でもちゃんと言うことは聞いて、甘え上手で、いつまでも「上手く」生きられないような、そういう妹になって欲しかったのだろう。「ぼーっとしている」「人の話を全然聞かない」「周りをよく見ていない」とよく言われていた。「貴方は父親そっくりね」と言われた。うちで「父親」に似ているという烙印を押されることは、「ろくでなし」「どうしようもないヤツ」を意味していた。

本当に、今ならすべての言葉を一笑に付すことができるのに。幼くて、愚かで、年少で、女であった私は、そういった「呪いの言葉」に対抗できず、受け入れてしまっていた。

今なら「あいつらの言っていることはすべてクソだよ」と言ってあげられるのにな、と思う。あんな薄汚れた言葉ではなくて、もっともっと柔らかい言葉で、自分を肯定してあげられたのにな、と思う。本当に、そうできたら良かったのに。

悲しくなってくると、昔の記憶がフラッシュバックする。そうすると、「惨めで愚かな妹」だったときの自分を思い出してしまう。馬鹿らしいな、と頭で理解はしているが、嫌な臭いがしそうなこの感情だけはなかなか消え去ってくれない。