真鍮の止まり木

帰ってくるところ、飛び立つところ/初めての方はカテゴリーの「初めに」をどうぞ

世界が回っているように私もまた回っている

端的に言うと酔っていて、酩酊のせいで思考が働かないことがちょっぴり快感だと思えたりする。

今晩は、たまたまそういう気分になった。ただそれだけだ。

思考と思索をやめられないという苦しみに近い習慣がある。ずっと何かを考えていないと生きていけないんだと、そういうふうに言い切ってしまいたくなるほど、「考えてみる」をやめられず、唇を噛んでばかりいる。

私にとって生きるとは考えることで、考えることは呼吸に近い。何でも良い、論理が私の脳みそを占めていてくれたらそれだけで精神が落ち着く。筋道はあってもなくても別に構わない。考えが広がったり狭まったり、深まったり揺蕩ったりするのが日常になってしまった。

もう、これ以外の生き方を思い浮かべることすらできないのだ。

正直に言うと、こんな生き方は不器用だと思う。もっと気楽に、身軽に、生きていけないものかと悩む回数だって少なくはない。

私は一体どうしたいのだろうか。まれに、正解を発見してみたい気持ちになったりする。生き方を変えたいのだろうか、それともこのまま続けていきたいのだろうか。答えはすでに判っているようにも、何一つ手にできていないようにも感じる。

全部自分の話なんだよと、いつだってそう言い聞かせて、宥めてやる。これは習慣だ。

そうすれば、少なくとも今晩だけは泣かずに済むのだ。そういう自分の癖を知っている。学んで得た知識と経験則から導き出した法則によって生かされている。ふわふわとしている。何かを、意味を問うもっと手前で、ささくれだった心を不用意に傷つけないように、やんわりと慰めてやりながら、今日も何かを考えている。「何か」でしか表したくない事柄について、考え続けている。