真鍮の止まり木

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頭の中がうるさい

※自分の希死念慮について、比較的詳細に語っています。同じような苦しみを抱えている人が引きずられて辛い思いをされるかもしれないため、読まれる際はご注意ください。少しでも具合が悪くなりそうでしたら、読むのを中断して自分自身を労ってあげて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

急激に悪化し、急速に終わりを渇望するようになっている。

頭が五月蝿くて仕方ない。「やってしまえよ」という声に抗うのに疲れてきた。どうやったら俺は俺の助けになるようなことができるんだろうか。「それは、終わらせてやることだよ」と言われて、「やめておこうよ」と応えるのに疲れてしまった。自分だって、それが「正解」だろうなってずっと思っているよ。応えてやらないことが不義理だとすら思っているよ。でも、多分きっと、「そうじゃない」んだろうね。死なせてやらないのは酷いことなんだと俺だって思うよ。でも、多分きっと、違うんだよ。違うって思えるようになるまでひたすらに認知の訓練をやってきたんだよ。だからこんなに苦しいのかもしれないね。「もういっそ殺してくれ」に応えてやれないことが、本当に申し訳なくて、本当に苦しい。

希死念慮のことを飼い慣らせている気になっていたが、全然だめっぽいね。駄目だね。

 

高橋和巳は私が一番好きな作家なんだが、彼の初作『悲の器』の第三十一章<静枝の手記>で、主人公の妻で末期がんに冒された静枝が、「わたしが今まで生きのびてきたのも、その馬鹿げた告白を自分だけしか聞いてやれなかったことによっているのかも知れない。そうなの、お前は一途に死にたがっているのね、とあやしてやるためには、他ならぬわたし自身が生きていなければならなかった」と綴っていたが、俺にはその心情が痛いほどによく理解できる。「馬鹿げた告白」とは「早く死にたい」と言うことで、そういう泥のようにしつこくいつまでもいつまでも消えてくれない、うんざりするほどの声に向き合うのは己自身しか居なかったし、これに他人を付き合わせる気もなかったし、だから、自分しか「死にたい」という声をきいてやれないのだ。

自分で自分を呪うことの途方も無さ、そのあんまりな仕打ちに憤るだけの理性があるから、まだ生きながらえているに過ぎない。でもそれって本当に理性なんだろうか。それは別に「正しいこと」ではないんじゃないか。答えがわからない。そもそも「答え」なんてあるだろうか。「俺がどうしたいのか、どうしてやりたいのか」でしかないだろうに。

「どうして俺はちゃんと終わらせられないんだろうか」という問いに真面目に向き合ってやるべきか、あやしつつ相槌を打ちつついつまでも付き合ってやるものか、決めきれずにずるずると時間が経つ。苦痛だ、早く終わらせたい。

「どうやって?」という声に付き合うべきだろうか。わからない。具体的な手法を考え、どうやったら実現できるだろうかとそればかりに思考が割かれているとき、自分はどこにいるのだろうかと思う。「正気」に戻りたいと望んでいるが、そもそも希死念慮とは18歳のときからの付き合いで、「正気」であったときの自分などちっとも思い出せない。記憶の彼方のあるかわからない「正気だったころ」を求めることになんの意味があるのだろうか。

あと言っておくと、「正気」なんていう、差別的な認識のフレームを持ち出してしまう自体が非常に良くないのでやめにしたい。

 

「助けてくれ」が、重みや負担にならないような形で、もっと気軽に言えるようになっていれば、こんなふうにはなっていなかったのかもしれない。自分のプライドが高くて手に負えないからこんなふうになっているんじゃないのか。そうかもしれないね。もうなんもわからんから、はっきりとわかる「自死」という単純明快な答えに縋りたくなる。なぜ駄目なのだろうか、縋ってみても良いのではないのか。そうだね、そうかもしれないね。そうやって付き合ってやる。時間を食いつぶすだけの問答に終わりが見えないし、とても疲れている。

「生きのびたい」はずだ、自分はそうなはずだと言い聞かせる。俺はどちらを本音にできるだろうか。「これからのこと」を考えられない。頭の中はずっと靄がかっているのに、「死にたい」という思念だけが嫌にはっきりと捉えることができる。

もっと早くに終わらせてやっていたら、こんなに苦しむこともなかっただろうに。自己憐憫に過ぎる感情にこれからもずっと付き合うのだろうか。疲れた、本当に疲れている。