真鍮の止まり木

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寝覚めの不確かさ

 目覚めたら正午で、ああ寝過ごしたのだなと自覚した。枕元にある、最新バージョンから幾分遅れた携帯には、三件の不在着信が届けられていた。宛先はどれも同一人物からであった。

 「菊人さん」

 自らの能動的性欲のおおよそ全てが向かう対象を指して、聖也はその名前を口に出してみた。愛おしくて、憎らしくて、なぜか少し泣きたい気持ちになった。続けて漏れた呼吸からは、昨日に摂取したアルコールの臭いがした。鼻につく、不快な臭いだった。

 室内には自分の他には誰もいなかった。

 白を基調とした、落ち着いた印象の部屋。本棚も整理整頓されており、床には紙一枚すら存在しない。白色のレースカーテンからは、柔い光が差し込み、部屋を薄く照らしている。そんな場所なのに、ベッドだけがどぎついピンク色をしていた。そんな場所で眠っていた自分もまた、周りの景色からは浮いていた。

 さて、一体此処は誰の家であろうか。覚醒してきた頭で、今居る所が実家の自室でも無ければ、知人友人各関係者の家でも無いということを理解していた。昨夜の記憶が曖昧な聖也にとっては、「此処が何処なのか」という問いへの答えは久遠の謎に思えた。

 ベッドの傍に投げ捨ててあった鞄から水の入ったペットボトルを取り出し、温くて古くなった水を飲んだ。三度喉を鳴らして飲み干した後、聖也は電話をかける。宛先は、先程口に出した相手。

 規則的な呼び出し音が鳴り止むと、麗しい声が彼の名を呼んだ。

「もしもし、聖也ですか?」

「おはよう、菊人さん……。ごめん、今起きたとこ」

「そうなのですね、良いのですよ、構いません。ですが、今どちらにいらっしゃるのですか。家にかけたのですが、貴方は昨日から帰って来ていないと言われて……」

「……ああ、そうだね、此処は何処なんだろうね」

「え?」

「いえ、何でもありません。ともかく、すぐに家に帰れる状況にないので、申し訳ないのですが、今日の予定はキャンセルさせて下さい」

「良いのですよ。出掛けるのはいつでも出来ますし。また、今度、ということにしましょう」

「本当に、ごめん。この埋め合わせは必ずするから」

「気にしないで下さい。何処であろうと、貴方がゆっくり休養できているのならば、それだけで私は喜ばしいと思うのですから」

 ふんわりと許容されてしまい、それ以上謝罪を続けることもできなくなってしまった。最後にもう一度だけ、「ごめん」を重ねて、聖也は静かに通話を切った。

 再度見渡してみても、やはり見覚えはない。どんな人物が住んでいるのか、昨日、どのような経緯で自分が此処に来ることになったのか。判別できない疑問がいくつも脳裏に浮かんだ。