真鍮の止まり木

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毎日承認欲求と劣等感との付き合い方を考える

 わかりやすく何かを伝えるということが、とても苦手です。相手に理解してもらえるのだろうか、私の言い方は適切だろうか、伝えようとしている言葉は平易に書かれているのか。私はいつも惑ってしまいます。

 小さい頃から、何かを伝えようとしたとき、「私はこう思っている、こう考えている」と相手に訴えたときの反応はいつも似通っていました。バリエーション豊かに、様々な言い方で彩られた反応はどれも、大体一つの意味を指していました。

「わからない」。シンプルで犯し難いほど明瞭な答えが、それでした。「貴方の言っている意味はわからないが、しかしその言い方あるいは発想は非常に面白い」というのが大意の、無遠慮で無神経な、ありふれた返答でした。

 相手のリアクションを見るたびに、未成熟の私は思っていました。もしかして、ひょっとして、この世界に、私を理解してくれる人なんて、一人もいないんじゃないのかと。私の思いなんて誰にも届かないんじゃないのか、なんて今振り返るとやや「青い」考えのように思えますが、当時の私は切実に「自分」をそのように捉えていました。今なら絶対に言えるであろう「大丈夫だよ」の一言が、私にはどうしても言えなかったからです。どうしても、自分自身にそう言ってあげることができなかったから、私はずっとそうやって拗れていました。

 わかってくれる人なんていないんだ、という私の思いの本音がどこにあったのか。結局、誰かに私のことをわかって欲しかっただけでした。「わかるよ」という言葉が聞きたかったのです。幼い私は、他者からの無上の共感と理解を求めていたのでした。他者理解を得るためには、自己を表現するしかない。ただし、「相手が理解できるような形式で、書き方で、言い方で」。私は、自己表現という言葉についてくる後ろの条件が本当に嫌で嫌で仕方ありませんでした。頭では理解できても、心も身体もついていかないのが、「相手にわかるやり方」という条件でした。本当は条件を満たすため、足掻いたり藻掻いたりしたら良かったんだろうと思います。でも、甘くて青い私はそれを途中で放棄しました。だからますます、私の認識する自己と他者が認識する「私」がズレていくような錯覚に陥っていきました。「理解してもらえない」という気持ちが、確信に変わってゆく日々を、まるで為す術もないような顔をして過ごしていました。

 「理解されない」ということを恐れて、私は「私」をひた隠しにしてきました。世間一般には「腐女子」と呼ばれる存在であること、「オタク」であること、その他もろもろ。いろいろなことを、私は仲の良かった友達にすら言えませんでした。どうせ説明しても『わからない』で済まされてしまうのだろう、もっと悪ければ、否定され、侮蔑されてしまうのだろう、という諦念が消えませんでした。だからなおのこと私は秘め事を口にしないで、いつも戯れに道化じみた発言を繰り返すようになりました。外面の私が、快活にお喋りをするようになっていったのです。

 今よりも若く、そして向こう見ずで無知で生意気で、そして切実に生きていた私はずっとそんなふうに思っていました。自分のことを、「恥ずかしい存在」なのだと疑いもなく信じていたのです。人に言えないようなことを抱えている私は恥ずかしいのだと、あってはならない存在なのだと、そう思っていたのでした。

 こうやって古書のような匂いがする過去を思い返していると、私の劣等感や自己肯定感の低さとは結局他者に理解されないことが積み重なったせいなんじゃないのかな、という気がしてきます。そうして生まれた膿が、今でもグズグズと私を苛んでいる。だから、やっぱり苦しいままなんだろう、と思います。

 とはいえ、劣等感や自己肯定感の無さに死にたくなる日々が全く変化していないのかと言われれば決してそうではなく、今現在はそういう、「わかって欲しい、でもどうせわかってもらえないだろう」という捻くれた考え方は、少し変わってきたように感じています。詳細は省きますが、去年から始まった真新しい環境に身をおいた結果として、私は久方ぶりに「自信」を手に入れました。これが、私の基本的な考え方が変わった大きな理由です。「自分は自分で、それでいいのだ」と心から宣言できるようになった、要は「私は私の存在を疑いようもなく信じられる」と言えるようになったのでした。私は私の「核」に自信を持てるようになったのです。そのおかげか、前ほど醜い自分について思い悩むことは減りました。まぁ、あくまで体感としてですが。

 自分に自信が持てるようになった、自分だって捨てたもんじゃないなと思えるようになったとはいえ、それでも不安な夜は巡ってきます。劣等感も惨めさも「恥ずかしい存在としての自己」も、何度でも蘇ってきます。失敗と間違いを繰り返す自分を責めて、「苦しめ」と言ってくる。そういう夜も、やっぱりまだあります。育った根はなかなか深いものです。

 それでも、私は生きていこうと思います。他ならぬ私がそうしたいと思ったのだから、明確な理由も見通しの良い将来もないけれど、それでも生きていこうと思ったのだから、私はそうしようと思っています。

 本当に「超私的な日記」としか言いようがないほど脈絡も趣旨もないような話をしていましたが、ここらへんで終わります。

 

 

 あ、そういえば、最近ツイッターを再開しました。ここで名乗っているのと同じ名前「楢ういの」で男二人についての益もない話を延々としております。完全壁打ち目的だけど、飽きるまでは続けてみようかと思います。最近はHiGH&LOWの話ばかりしていますが(あんスタは通信制限がかかったせいで今回のイベントは全く追えていません)、もし見かけたらよろしくしてもらえると嬉しいです。楢ういのでした。

学生時代の友人と会って話をしてきました

 一昨日、友だちと会っていろんな話をしてきました。お互いの近況であったり、趣味のことであったり、とにかく、多くのことを互いに話して聞かせ合いました。

 長い長い会話のなかで、私たちは過去の話をたくさんしました。これからの話は、全体の割合からしてみれば、それほど話さなかったと思います。それは、お互いがお互いの過去を全く知らなかったからです。何をしていたのか、何が身の回りで起きたのか。私たちには知りようのないことでした。だから、たくさん話をしました。お互いの知らない過去を埋めるために、私たちは飽きることなく話し続けました。

 長く多量な話題のうちの一つとして、私は、人生で何度目かの「極めて私的な話」を彼女にしました。「極めて私的な話」とはつまり、私のセクシュアリティについて、性的指向について、私の趣味についてです。それらは全て私が大切に守ってきたものでした。彼女が受け止めてくれるのか、実際のところ私にはわかりませんでしたが、それでも私は彼女に話しました。不安は、少しもありませんでした。だって、伝えてもきっと「大丈夫」だと思っていたから。彼女なら「大丈夫」だと、私は話し出すその直前まで、そして話が終わってからも、ずっと思っていたのです。だから私は嘘偽りなく、自分の話をしました。

 話を聞いた彼女の反応は、実に「普通」でした。何の驚きもなく、何の動揺もないように、私には見えました。それを見とめてから、やはり私の判断は間違っていなかったのだと思いました。

 受け止めて欲しい、と思ったわけではありませんでした。ただ、「否定しないで欲しい、知ったかぶりをして私のことをわかろうとしないで欲しい」とだけ、私は望んでいました。かくして、私の望みはその通りになりました。彼女はいつも通りでした。今まで会って話をしてきたときと変わらない様子で、私の話に耳を傾けてくれました。それが私には、すごく、すごく嬉しいことでした。

 勿論、私は彼女がそういう人間ではないと確信していたし、信用もしていました。だから、彼女が私の話に過剰な反応をしなかったことに対しては、それほど驚きませんでした。でも、自分の話をして、改めて彼女が「そういう人ではない」と確認できたことで、ほっとしたし、安心した部分はきっとありました。ああ、彼女が好きだなぁと私はしみじみ思いました。

 またいつか――それはきっと遠くはないのだと思いますが――彼女に会える日が楽しみで仕方ありません。いろんな話をしたいと思います。

片付けたら、伽藍堂になった

 思い出したように、掃除をしていました。何もかもをすっかりと、そっくりと、綺麗にしていました。汚い雑巾を何度も絞って、汚い水を何度も洗い流して、クローゼットの中、テーブルの裏表、デスクの角、冷蔵庫の上部、いろんなところを拭いて綺麗にしていました。

 ところで、私は今週に引っ越しをします。もうずっと前から決めていたことでした。そうして、長かった独り暮らしが今、終わりを告げようとしています。何でしょうかね、この気持ちは。浮足立っている感覚がします。ひょっとすると、寂しいのかもしれません、多分、きっと。でも、あまりそうだと言える自信もないのです。だって、寂しいと思えるほど今住んでいる土地に対する強い愛着があるわけでもないですから。こちらでの生活は決して楽しいだけではありませんでしたし、辛いことも楽しいことも同程度あったし、つまらないこと遣る瀬無いこと、どうしたって届かないこと、たくさんの出来事がありましたから、そのどれもを全部取り出して来て比較検討するなんてちょっと無理があるんじゃないかと思います。

 どう言えばいいのか、無心で掃除をしていたときには決してこんなことを思わなかったのに、何もない、がらんとした部屋を見ていると、心臓の近くがざわざわする。そんな感覚があるのです。

 それはそれとして引っ越しの準備ですが、もとから衣服を除いて荷物はそれほど多くはなかったので、荷物をまとめる作業自体はそれほど苦でもなんでもありませんでした。ただ、片づけをやっていてひと段落したときに、「ああ、私はここからいなくなるんだな、消えてしまうんだな」とぼやっとした気持ちで、そう思いました。おかしな気分です、ずっと住んでいた私の家が、もうすぐそうじゃない場所へと移り変わってしまうなんて。そして私の知らない、知りようもないような誰かがこの部屋に新しく住むことになるなんて、本当に不思議なこころもちです。

 私は、遠い所でずっと独りで暮らしていました。それは私の心から望みでもありました。昔から、故郷から離れたくて仕方ありませんでした。あそこに戻りたくない、どこか遠い所へいきたい、誰も私のことなんて知らない場所へ行きたい、とそう思っていました。おとぎ話が好きだったんです、そういう、どこか知らない世界へ出かけていって、冒険をして、新しい出会いを得て、そして、幸せな結末、笑顔でハッピーエンドを迎えるような、そんなありきたりなおとぎ話が、私は好きでした。だからというわけではないですが、高校は隣の市の私立高へ、卒業後は地元から遠く離れた関東のとある大学へと、どんどんどんどん、故郷と呼ばれる地から離れていきました。そして、最後はもっと、ずっと遠くの地へと、出かけて行きました。おとぎ話のように、どこか遠い場所へ、行ったことも見たこともないような場所まで行って、私は私の生活を始めました。

 まぁ、そうは言っても私の人生はおとぎ話のように出来ているわけではなく、だからこそ私はまた地元へと舞い戻ろうとしています。遠い場所へと旅に出た主人公は故郷へ戻って「ハッピーエンド」を迎えたり、あるいは異国に安息の地を得て永住を決めたり、と何らかの決断をめでたしめでたしとなりますが、私はおとぎ話の主人公ではありません。ですから、いつ「ハッピーエンド」を迎えるのかは知りようがありませんし、そもそも「ハッピー」な「エンディング」が本当にやって来るのかすら、知りようがありません。正直な話、故郷に戻ったところで「幸せ」にはなれないと私はもう十分解っているので、すぐにまた違う場所へと旅立つものと思われます。

 夢物語のようにはならないのが、現実の、私たちが生きる人生なんじゃないかと思います。

 でも、私は、私の場合に限る話ですが、ともかく、生きてみようかな、と思っています。今いる場所に長く住んで、漠然とですが、そう思えるようになりました。新しい環境に身を置いて良かったことの一つは、こういうふうに「まぁとりあえず生きてみようか」と自然と思えるようになったことです。こんなことを言いつつ、精神が不安定になるとすぐに泣き言を言ってしまうことも多々あるのですが、ともかく「生きていこう」という、恐らくはかなり前向きなこの気持ちを持つことができたこと、そしてそれが今を生きている私の動力になっていることが、素直に喜ばしいです。

 これさえあれば生きていける、というものはいまだ見つかっていませんが、「まぁなんとかなるかな、生きていれば」という根拠も何もない自信を手に入れられたのは良かったと思っています。例え、ときには投げ出してしまいそうになり、またあるときには真逆の強迫観念で自らを奮い立たせるようなことがあるとしても、それでも、基本姿勢として「まぁとりあえず生きていこう」と思えている自分の状態が、私はそんなに嫌いではありません。「固い決意」、というほど大それたものではないこの思いですが、それでも大事に、大事にしていきたいです。

 あんスタのことを考えるとすぐに辛くなる毎日をおくっていますが、それでもぼちぼち生きていこうと思います。生きて、精一杯頭を使っていきたいですし、頑張って推しの人生について考えていきたいです。

いよいよ今日からです


RADWIMPS 前前前世 (movie ver.) MV

 

 昨日からずっと延々とリピートしています。とても好みです。RADはそこまで詳しくないんですけど、学生時代RADが好きだった友達にアルバムを貸してもらって聞いたことがあるので、何曲かは知っているくらいの知識でまた聞き始めました。知ってるうち好きだったのは、『おしゃかしゃま』とか『オーダーメイド』、『君と羊と青』、『有心論』などなど……有名どころの曲は曲調がまず好みですね。歌詞は、総じて好きな部類なんですけど、ときどき納得できないというか、「それはあんまり同意できないな」と思うこともあるのですが……。

 ともかく、この曲です、そう、『前前前世』。映画『君の名は。』の主題歌だそうで、来月時間があったら身に行こうかなと思うほどには好い曲です。ぜひみんな聞いてみてほしい。

 

 さて、今日のブログの本題は実は『前前前世』ではなくて、今日から始まるあんさんぶるスターズ!のイベントの話なんですよね……。もうね、しんどい、待つのがしんどいからいっそ早く止めを刺してほしい。

 なぜまだ始まってもいないイベントのことを考えてこんなに気鬱が激しいのかというと、イベントにほぼ確定で私の担当と好きな男が出てくるからです。私の担当と好きな男の話は長くなるので、元気があったらまた今度するとして、とりあえずキャラ名だけ明かしておきますね。私のあんさんぶるスターズ!における担当キャラは天祥院英智くんで、好きなキャラが日々樹渉です。はい、この二人が確定で出てくるイベントが今回の新イベントです。もう駄目だよ辛い。この字面並べるのが辛い。

 で、今回のイベント『追憶*集いし三人の魔法使い』なんですけど、私の担当と好きな男が、ストーリーに登場するんですよ……はぁ~~辛いなぁ……。ちょうど学院内の抗争時期の話になると思われるので、辛くないわけがないんですよ。

 それは一体どのような話なのか、ということで、以下ストーリーのあらすじを引用しますね。

 

 春、【DDD】を終えて数日、『Switch』が校内でドリフェスを行おうとしていた。できたてのユニットに英智はちょうど一年前の出来事を思い出す。

 

 一応言っておくと、私はまだあんスタを始めたばかりの新参で、詳しいストーリーはちゃんと全部は終えていない、調べて確認できた知識のみで認識している部分も多々あるんですけど、それでもこのイベントが辛いのはわかる、わかるんですよ……。そもそも私の担当が絡んでくる話は大体辛いのは既にサーカスイベントを見たときに知ったことなので、はい……。

 とにかくガタガタいっても仕方がないし、今はガタガタ言えるだけのデータも手元にないので、大人しくイベント開始を待とうと思います……。イベント回収し終わったら多分何かを書くと思います。

 では。

帰宅

 長い旅行から帰ってきました。文章について、物語について、男二人について、考えながら旅行をしていました。BLが好き、というよりも、もはやフィクションの男二人を考えずにはいられないようになってしまったなぁと、旅行中そんな感慨に耽ることがたびたびありました。もはやただの習慣なんでしょうね。フィクションを考えること、キャラメイクをすること、そういう一つ一つが、私の習慣なのだと思います。

 

 旅行をして何かが変わるかもしれない、と少し期待していましたが、実感としては何一つ変わったと感じることはありませんでした。ただ、旅行はひどく楽しかったです、本当に。楽しかった、自由だった。一人で旅することがこんなに自由でこんなに楽しいということ。それが私にとっては非常に価値のある気づきになりました。

 旅先でいくつかトラブルもありました。そのたび、自分の「手札」でなんとか足掻いて、そして切り抜けていきました。そういう体験ができたことが私にはひどく嬉しかったです。ああ、自分はトラブルに遭遇したとき、対処できるだけの「力」が「知恵」が、ちゃんとあったのだと、知ることができたからです。「何もできない、なんてことはない」と、しっかりとかたちを持った「実感」を、また一つ手にすることができたからです。

 もうすぐ自分の生活環境が一新します。まぁもうすぐ、というか来週からなんですけど。今後のことを考えて、不安にならないときはありません、いつだって不安で不安でどうしようと泣きたくなります。でも、そんなときに「なんとか一人でも生きられるようだ」というこの確信が、今確かに信じられるこれが、きっと私を助けてくれるのだろうと思います。

 変わっても生きていられる、と胸を張って言いたい。前向きには生きられなくても、でも、こういう生き方でもいいんだと、思えます。日によって左右される感情の揺れですが、ともかく、今日このときは、そう思えるのです。そして私はそれを嬉しいと感じています。

 

 ところで、明日からあんスタで自分の担当が登場するイベントが始まるので戦々恐々としています。イベントストーリーのなかで、一体どんな英智くんの一面が明かされるのか、恐ろしくてドキドキしています。ドキドキ、というか不安で不安で胃がムカムカしています……担当に精神的に殺されるのかもしれない……どうしよう……。

 

 一週間まともな文章、例えばブログの文章だとか物語の文章だとかを書かないで過ごしてしまったので、感覚を取り戻すため、今日からまた「書く」という作業をやっていきます。本当にこうして文章を練るのが久しぶりで、つらつらとしたことを気分のままに書いているだけですが、文章を打っていると自分の日常が戻ってきたようでほっとした気持ちになります。長い間留守にしていたけれど、やっと帰ってきたのだという感じがします。そうです、私は帰ってきました。日常に戻ってきました。

ものを買うこと、衣食住を満たすこと

 昨日服を買いました、ほとんど1年半ぶりに新しい服、というかもっと具体的に言えばトップスを買いました。ちょっと感慨深いです。

 なぜ今まで1年半もの間新しい服を購入しなかったのかというと、自分の置かれた環境としてどうしても「新しいものを増やしにくい」場所に今暮らしているからでした。本音を言えば、できることならもう少し我慢して、買わずに済ませてしまいたいとさえ思っていました。

 じゃあ、なぜそういう状況なのに新しい服を買ったのか、と言われれば、「それが必要だったから」です。というのも、実は私は来週から長期(具体的には1週間ほどかけて)旅行に行く予定なので、そのために必要な衣服を揃える必要があったんです。あれだ、1週間絶えられるだけの服を持っていないの致命的すぎるなと反省したよ……何しているんだろうなとはたびたび思いましたが、まぁ余談です。随分と状況は変わったよなぁと少し冷めた目で見てしまう自分がいます。だって、昔は持ちすぎるほど持っていたのに。今では質素倹約ばかりを気にして生きているような気がします。それがそんなに嫌いというわけではないのですが。

 ともかく、がっつりと服を買いに行ったのは1年半ぶりのことでした。本当は、仕事を初めてから1度ジーパンを数着買ったりしたのですが、それは嗜好としてではなくあくまで仕事のためでした。なので、今回の買い物とはちょっと意味合いが異なるだろうと私は思っています。

 それで、今回の買い物ではトップスを重点的に選んで買いました。向かった先は徒歩20分ちょっとで着くような都市の中心街ではなくて、ちょっとだけ遠出をして、それなりに大きなショッピングモールまで足を運びました。そこで数多あるショップを見て回り、超安価なトップスを数着購入し、私の買い物は終了しました。

 買い物を始めたときは、正直自分の好みなどあまり考えてはいませんでした。とにかくいますぐに新しい服が要る、なんでもいいから安いものを買ってしまおう、貯金も少ないことだし。そう思ってはじめの数着を選びました。それが二日前のことでした。

 で、昨日なんですけど、実はまた同じショッピングモールまで出かけていました。ええ、同じショッピングモールにそれなりの交通費出して行ってきましたよ。え、なぜ同じショッピングモールに行ったの、という疑問にお答えしますね。店員が無断持ち出し禁止用のマグネットを外し忘れたからです!!!! 私だって袋から取り出したときびっくりしたし、どういうことだよと思ったわ。まぁそれはいいとして、いやよくはないんだけど、とにもかくにもそんなわけでまた同じ店に出かけました。二度手間です、まごうことなき。でも、そう悪いことばかりでもなかったんですけれど。

 そういった事情から、私は昨日また買い物に出かけました。正直、行くまでは楽しみよりも面倒な気持ちの方が強かったです。だるいなぁとぼやいていました。そうして、2日前に行った同じショッピングモールに出かけて、2日前にも足を運んだ見覚えのある店までたどり着き、2日前も見たよなという店員に事情を説明して、購入した服のマグネットを取ってもらいました。そして、ああ、今日の任務完了だなと思ってほっとしました。そんなときでした。私はとあるお店に目をとめました。

 あれ、こんな店昨日見たかな、とそのときの私は思いました。2日前、このショッピングモールであれだけ歩き回ったのに、私はなぜかそのお店だけを見落としていたのでした。真っ先に目が言ったのは価格帯。店頭に並べられたトップスの価格表示を見てすぐにここは安いと思いました。値段の安さが私を引きつけました。そして何よりも魅力的だったのは、お店の服のデザインが総じてかわいかったことでした。いや、本当にかわいかった。それで、ああ、私の好きなタイプの服を取り扱っているお店なんだとわかると、もう足は止まりませんでした。迷わず店内へと入っていき、服を見て回りました。

 私の任務は終わっているのだから余計な服を買う必要などなかったはずでした。でも、そのときの私はただただ自分の好きな服を見て回りたかった、これという服を選びたかった。不思議な心地がしていました。そのときまではちょっとした遠出で些か疲れており、服選びなんて楽しいとも思えないしむしろ自分を疲れさせる要因の一つでしかないのだと思っていました。それに、私は昔から自分を着飾ることがあまり好きではありませんでした。なぜなら、「服を買う」という体験にあまりいい思い出がないからでした。

 幼いころ、私は母親とよく服を買いに行っていました。うちの家計は全て母の収入で持っているようなところだったので、母親、というかもっというと母親の財布がないと何も買えなかったようなおうちでした。そんな事情のせいか、私は実家に住んでいたころ、「服が欲しい」と能動的に思うことはあまりなく、いつも「そろそろ新しい服必要なんじゃない?」という母の言葉があって、「そうだね、そろそろ必要かもね」となってから動き出していました。無駄なものは必要ないと常日頃言うような母親で、私は無邪気にそんなもんだと全てを鵜呑みにしていました。で、やっぱりそういう昔からの癖ってなかなか抜けないものなんだなぁと思います。今でも、こうしてぎりぎりになって「必要だろ! 動け! 死ぬぞ!」と発破をかけないと私はなかなか動き出せません。自分をあやしたり宥めたり叱ったりしながら、もう少しいい塩梅にしたいとは思っているし、多分今後5年ぐらいの人生目標の一つとしておきたいので、そのうち傾向と対策を練りたいと思っております。

 そうして私は、「余計な服」を買いに行く必要のないお店へと入りました。そこにはかわいいがあふれていました。自分は個人的にドットやストライプのデザインが好きで、色合いもクリーム色とか紺色とか、服ならそういう系統の色味を好んで買う人間です。そして、そのお店には自分の好みの服ばかりが売られていた。感激した、ああ、凄いと。凄い、大体全部好きだ、好みだ、しかも手頃な値段、私でも手が出せる、嬉しい、最高じゃねぇか。そういう夢見るような気持ちで服を見て回っていました。

 それから30分後に、そのお店で私は1着だけ服を買いました。買う必要なんてないのになと、だけど私が好きで好ましくてまぁこれなら旅行でも着れるだろうと思って、1着だけ服を買いました。「それいらないんじゃない? また必要ないもの買って」と誰かが言ったような気がしますが、あんたには関係ないことだよ、とそのときの私は言えたので大丈夫でした。私は、ちゃんと、自分の意思で、自分のお金で、「自分の好きなもの」を手にできたのでした。ブログ記事を書くため今室内でキーボードを叩きながらそのときのことを思い返しているんですけど、しみじみ良かったなぁと思います。私はその経験が愛おしくて堪らないくらいです。

 とまぁ、昨日はそんな小さな喜びを感じることができた一日でした。でも割とへろへろしていました。本当に体力ないな、ほんとにこれで旅行行くのか本気か、と毎日のように思っています。うるさい、行くったら行くんだ、だってもう全部予約しちゃったじゃん、と必死に脳内の自分と戦っています。仕方ないじゃん……。

 まだ旅行の準備ちゃんとできてないんですけど、2日後には旅行を始めます。だいぶ遠いところに、一人で出かけます。楽しみで、やっぱりちょっと怖いし不安です。

自分についてとブログ開設理由の覚え書き

※あまりにも誤字脱字と意味不明な箇所が多かったので、内容に大幅な加筆修正を入れました(20/08/2016)。結果として全体で8000字超えするシロモノが出来上がったので、暇なときにさっと目を通して貰えれば幸いです。

※誤字脱字と、最近ハマっているジャンルについて、ころころ変わるのでもういいかと思い、全部削除しました。(2022/01/22)。

 

 

 ブログをみんなに見えるかたちでやるのがもう云年ぶりくらいなのでいまいち勝手がわからないんですけど、とりあえず自分のことについて書くのが最初としてはいいだろうから、自分の紹介を淡々と書いていきたいと思います。

 自分の名前については、ネット上ではいろいろ持っているのですが、とりあえずここでは「楢ういの」と名乗ることにします。どうも初めまして、楢ういのです。

 さっそくなんですが、自分についてさっくりと話していきます。人に話すときって「自分がどういう人物なのか」というのをどう説明すればいいのかいつも迷うんですけど、他の人はどうなんだろうか。恐らく、こういう「自分が何者か」を語るときの躊躇いというか戸惑いというのは、ある程度共通の悩みなのではないかと思います。だってネットだし、不特定多数に見られる可能性がある場所だし、身バレに気をつけて「どこまでなら開示していいか」をきちんと見極めなければいけないし、さもなければ下手をすると本当に「死んでしまう」ということは大いに起こりうるわけで、そういった実例は枚挙にいとまがない。そんなわけで、私は身バレを昔から極度に恐れているので、あまりあけっぴろげには語りたくないと思っているのですが、それでもネット上に見せる自分を語るとするなら、「BLが好き(※いろいろ思うところがあって自称として「腐女子」とは極力言わないようにしています)」、「インターネット物書きマンの端くれ」ぐらいになるんじゃないかなと思います。「BL好き」というのはまぁおいておいて、「物書きマンとしての私」は別名義で某所で二次創作書いたり、詩書いたり、一次創作やってたりします。ちなみに、自分の創作における大きなテーマはBLです。その理由は、単にBLが極度に好きだからです。そうです、BLがとても好きです。とにかくBL、もっというと「男二人の関係性萌え」を拗らせてここまで育ってきました。早いもので、BLにハマってから既に10年目を迎えており、小さいときはいつかこの趣味やめるのかなと思ったけどそんなことは全くなかったです、今でも元気いっぱいBL摂取してる!いいお薬!

 過去にハマったジャンルは、以下のとおりです。

真・三國無双シリーズ/一大ジャンルとしての「三国志」、おおきく振りかぶってFate/Zero黒子のバスケハイキュー!!、BBCSherlock

 真・三國無双シリーズなんかは記憶に在る限り初めてずっぽりハマったジャンルだったように記憶しています。BLを好きになったのもちょうどこの時期なんですよね。上に挙げたもの以外にもつまみ食いしたりしていたジャンルはあるんですけど、上記のジャンルはとりわけずっぷりと浸かっていました。

 その他の趣味としては、ネットサーフィンと読書、後は音楽をひたすら聞くこと(ジャンルがかなり広範囲に渡っているのでとりあえず「ラップやレゲェ音楽以外は大抵聞く」とだけ)です。

 ここまでざーっと自分の自己紹介らしきものをしてきたんですけど、簡単に言えば「BLが好きな人間」に尽きるような気がします。まぁそうだろうな……。

 さてさて、つらつら自分の好きなジャンルとBLについて語ってきましたが、そろそろなんでブログを始めようと思ったのかについての話に移行していきますね。

 このブログ設立の経緯をざっくり言うと、「何かまとまったとりとめもない文章を書ける場所が欲しいとずっと思っていて、昨日いろいろあって号泣して辛い苦しい悲しいと喚いていた勢いで自分には新たな『仮面』が必要だと思い立ったのでブログを開設しました」という流れになります。なんだこれ、意味わからねぇな……。

 だと思うので、順を追って詳しく説明していきますね。ええっと、ことの始まりは去年の10月ごろで、このころ私は仕事の関係で精神がだいぶアレなことになりまして、救急処置として「文章を書いて吐き出せない怨嗟を昇華しよう」と思い立ち、物語と詩を書き始めるようになりました。それからアウトプットのやり方をどうしようかと某SNSで四苦八苦した結果、「自由詩あるいは散文詩」の形式が一番自分の感情を直で吐き出しやすいということに気づき、それからはもっぱら詩を書いて自分の行き場のない思いを吐き出すようになりました。なお詩の創作は今も続けており、自分のとりとめもない感情や衝動的な思いをかたちにするのに適しているなといつも思っています。白状すると、私が意欲的に詩を書こうと思えたのは詩人の最果タヒさんの著書『死んでしまう系のぼくらに』に出会ったところが大きく、なので自分の産み出した詩は最果さんの影響をかなり受けています。彼女の詩に出会ったのは生活環境が一変する直前だったのですが、今でも幸福な出会いだったと思っていますし、ときおり著書を広げて読んだりしています。非常に素晴らしく、そしてエモい詩集なので私はできる限り多くの人に読んでもらいたいと思っています。

 話が逸れました。で、仕事にも慣れある程度精神の安定がはかれるようにはなってきていたんですが、事情があって今年に入って7月に仕事をやめてしまいました。もともと長期で働く予定ではなかったので別に良かったのですが、とにかくそこから全くの暇状態になってしまいました。それで、これはいかんな、なんかしようと思って、「時間あるんだし、もっとちゃんと物語を書こう」と思い立ちました。決意してからの行動は早く、今ではほぼ毎日、1時間1000字以上を条件に物語を書いています。まぁ、日々のタスクの一環といった方が正しいのでしょうか。私は自分が書いた多くの物語は「練習」だと思っているので、基本的にはどこにも公開はしていません。あ、でも、この前久しぶりに書いた二次創作が割と長めに書けたので、これだけは某所で公開しました。多分、今後もある程度の長さを持ったタイトルをつけられるような作品はどこかで公開していこうかと思っています。というか、二次小説は絶対にすると思う、自カプの認知度を上げたいから。

 この「もっとちゃんと物語を書こう」という決意なんですが、私は大学のころ一度「フィクションを書くのは止めにしてしまおう」と思いそれからずっとまともにフィクションの物語を書いていませんでした。じゃあなぜ今書き始めることにしたのかというと、時間があったというのは大きな要因ですが、そのほかにも、自分の空想を物語という骨組みのなかに落とし込みたい欲求が強まって来ていた、というのがありました。仕事をやめ時間が有り余るほど出来たら、元からあった空想癖が物凄い勢いで加速し、その結果脳内でいくつもフィクションの世界を構築するようになったいました。で、収拾もつかないし、脳内でこねくり回すだけじゃなくてちゃんとかたちにした方が表現の幅も広がるし、理解もしやすくなるのかなと思ったのもあってまた物語を書き始めました。

 で、これにつけ加えてもう一つの理由があるのですが、それは私が長年わずらっている「文章を書くコンプレックス」をいい加減に克服したい、と考えるようになったからです。中学のときから、私はどうしても文章を書くという行為に自信が持てなくなりました。しかしその当時自分のそのコンプレックスをどうこうすることもなく、「直視したくない」という思いから見て見ぬふりと放置を決め込み、自分の文章の「良さ」というものがわからないまま年齢だけを重ねてきました。こうやっていろいろ書くようになってからも、やはり「自信を持って文章を書いている」とはまだ言えません、未熟なばかりです。

 じゃあ、なぜ今でも積極的に文章を書いているのか、と言われればその理由は簡単です。それは、自信とかプライドとか実績とかそういうのを抜きにして、私は「文章を書く」という行為が昔から大好きで大好きで仕方がなかったからです。下手だ、分かりづらい、読み辛い、そうだろう、私だってそう思います。でも私は、文章を書くということが好きで好きで大好きで、だから、どうしても諦めきれなかったのです。だからこそ、仕事をやめてすることもなくなったときに、自分の大好きなことをもう一度ちゃんと腰を据えてやってみようと思うようになりました。書きたい物語もある。だったら文章を書こう、綴った文章を連ねて物語を書こう、書き続けよう、と心に決めました。こうして一歩をまた踏み出せたことを、私は結構良かったなと思っています。というのも、昔「フィクションを書くこと」を断念した経験もあったので、なおさらこの決意を下せたことにどきどきするんですよね。良かった、もう一度この決意を持つことができて。そう思っています。

 あぁ、話が逸れてきたのでもとに戻しますね。なぜこのブログを開設したかの話をいい加減進めるべきなので、そうします。

 で、そうやって日々フィクションの文章を書いている傍ら、私は自分が日々感じる鬱屈とした思い、フィクションにはどうあっても落とし込めそうもない、リアルの自分が生み出す生々しい思いについて考えていました。こういう思いを、もっとちゃんと言葉にできたらな、そういうことをもっと気軽にできたらなと思っていました。そういう鬱屈ってどこに由来するのかというと、自分でももうよく分かっているんですけど、「自分の育ち」と「自分の境遇」と「自分の人付き合いの下手くそさ」なんですよね。そして、この自分の中の「コンプレックス」は何度も何度も湧き上がってきて、私はそれに何度となく苦しめられてきました。というか、こういうのって恐らくカウンセラーなどに相談すべき案件なんだと思うんですけど、もろもろの事情によりそれも難しく、ならば一体どうするべきか、というようなことを悩みながら、悶々とした日々をおくっていました。

 そんな私の状況に転機が訪れたのが昨夜でした。そう、昨日の夜のことでした。

 ところで、突然ですが私はかなりの頻度で精神面の不調に見舞われます。本当に凄い頻度で精神の安定が崩れるんですよね。まぁ、その後また持ち直したりして、そんなこんなでなんとか日々をおくってはいるのですが。それで、自分の場合精神の安定が崩れると、大抵涙が止まらなくなります。本当に全く止められない。そして、号泣しはじめると、大体軽い恐慌状態に陥ります。そうなると脳内に膨大な言葉が溢れかえり、身体が震えて制御が出来なくなります。とにかく泣いて、自分を責めて、更に泣いて、更に責めて、を延々と繰り返すようになります。自罰意識と自己卑下の悪循環で身動きがとれなくなるんですよね。そういうことが昨晩も起きました。昔は体力が切れて疲れて眠ると大体終わっていたんですが、最近は脳内の自分に話しかけ助力を仰ぐことでなんとか酷くならないようにしていました。で、昨日もそれをやりました。

 そうしたら、脳内である少年の声が聞こえました。彼のことはよく知っていて、というのも彼はとあるゲームに登場するキャラクターで、私の好きな男の子の一人だったからです。一応言っておくとこれは恋愛感情的なものではなく(※私は他人に恋愛感情を持ちたくないし、持つにしてもじっくり検討してみないと恋愛だと判断を下せない人間だと自認しています)、「人間として最も好ましい部類のキャラ」ぐらいの意味です。彼のような男キャラクターが好きなんですよ……付き合いたいとか友達になりたいとかそういうのじゃなくて、強い憧れを持つ対象として、彼のような人間が好きなんですよ私は。まぁそれはいいです。彼の詳細についてはここでは言及しませんが、ともかく彼が言いました。「仮面を被ればいい」と。「仮面を被ることの何が悪い。『良い子』になりたくなくて自由選択をとったはずなのに結局『良い子』面してしまうなら、完璧な『良い子』という仮面を被り、それを演じればいいのだ」と。私は思いました。「ああ、そうだな」と。それで恐慌が収まりました。

 私には強いコンプレックスがいくつもあります。それは例えば容姿とか、文章力だとか、「良い子」になりたい願望だとか、そういうものです。誰でも持っているもので、誰でも悩みうる事柄だと思います。このなかで、容姿については去年がらっと生活環境が変わった影響でさほど気にしなくなり(加えて気にかけるようなことをいう人間が近くにあまりいなかった)、文章力については「毎日練習していればそのうちそれなりのものが書けるようになる、好きなら書け、練習しろ」という力技みたいな発想でとりあえず落ち着きを見せてきました。

 ですが、この「良い子」になりたい願望だけは本当に根深くて、今までずうっと私の中に横たわっている最もややこしい問題の一つでもありました。普段はもう、自分は「良い子」になりたいわけじゃないと思っているし、自分が「良い子」になる必要なんて全くないんだと思えるようになったんですけど、なかなかうまくいかないもので、どうしても頭の片隅で自分を苦しめたり勝手な判断を下そうとする「理由」になってしまっているんですよね。「『良い子』かどうか」という価値基準を、自分のなかから完全に抹殺することができないのです。

 ここで彼が言った台詞に戻ります。そのとき、天啓のように彼の言葉を聞いた私は、彼が言った言葉の意味について考えてみることにしました。普段の私は「やりたくない」が先行して何もしないということが非常に多い人間です。そして私は常々そういうところを「直したい」と思っていました。それは、そういうところを「良い子」じゃないと思っていたからです。けれど、「良い子」になりたくないのに「良い子」になろうとしているじゃないか、その矛盾はなんなんだ、と思っていました。そう思うくせに実際は「良い子」になんてなれないんだろう、馬鹿だな、とせせら笑う自分の存在を知っていました。そうして何の行動にも移せないままに、日々を無為に過ごしてきました。

 「良い子」とは、「ラッピングされた私」のことです。それは綺麗に包装された「贈り物」「商品」であり、人に提供されうる品々は、いつだって好ましい、望ましいものとしてそこに存在しています。私はそんなふうに自らをラッピングすることを恐れていました。ラッピングした私を差し出して、包み紙を空けてみて「なんだ、こんなみすぼらしいものか」と失望されるのを恐れていました。そして一番の問題は、私は包装の仕方をよく知らないし、勉強してこようとも思わなかったということでした。私はラッピングなんて、したくなかったのです。自分を偽ってまで、誰かに見せるなんてしたくない、と思っていたから、ちっともラッピングの方法を理解しようとしてこなかったのです。ここまで書いておいて、それでも、今でも「ラッピングなんてしたくない」と思っていたりします。

 で、彼はそれを「やってみろ」と言ったんだと私は理解しました。それが偽りの自分だって、それの何が悪い。やってみればわかる、駄目だったらその仮面は自分には合っていなかったと言うだけの話なのだから。だからとにかくやってみろ、「演じること」「偽ること」は決して悪ではない、それをライフハックにしてみればいい。彼はそう言いたかったんだと思いました。私はそういう意味で理解し、そしてその言葉に納得しました。

 だから私はこのブログを始めることにしました。それは、「外で仮面を被ると決意したのだから、うちではもっと気を抜いて生きていきたい」と思ったからです。私は外で偽ろうと思います。偽って、外に出かけられるようになろう、と思っています。そのために、私はこのブログを「止まり木」にしたいと考えています。「止まり木」とはつまり「住処」であり、寝泊りをして休む私だけの居場所です。けれど、ずっとそこにはいられない。私は「止まり木」から羽ばたいていかなくてはならない。大空に羽ばたいて「狩り」をしなくてはならない。なぜなら、「止まり木」にいるだけでは実際問題生きていけないからです。外に出て買い物をしないと衣食を満たすことが出来ない。外へ働きに行かないと、お金を稼ぐこともできない。そして私は自分で自分のお金を稼げないと、死んでしまう。だから外に出なくてはならない。

 外に出るためには、「出られる自分」が必要になります。「出られる自分」とは「人に見せられる自分」と言い換えてもいいのかもしれません。それは完璧な武装でもいい、あるいは内面的な強度であってもいいと私は思っています。とにかく、「自分は外に出るに足る人間だ」と思えないと、外の世界で生きることはあまりにも困難を極めるのです。したがって、外に出るためには「仮面」を身につけなくてはならないのです、そう、少なくとも私にとってはそうなのです。だから私は、「ラッピングされた私」をつくる決心をしました。

 私の話をします。あくまで、私が思った「自分がライフハックするためには何が必要か」という話だけをします。私は、私だけの特別な「真鍮の止まり木」にずっと止まって休んでいたいけれど、そうしても満たされないということをよく理解しています。だからこそ、外に出たい、出なくてはならないのだと思っています。そして、私は外に出る準備をしたい。外へと飛び立っていくために、自分のホームでそのための「練習」をしたいと思っています。「仮面を上手に被るために」「上手く演じるために」、私には練習が必要だから。その一方で、外で生きぬくことばかりを考えていたらきっと擦り切れてしまうのだろうということもまたよくわかっています。だからこそ、私はこのブログを外に出るための「練習の場」として、それから、自分が寝泊りをする「安らぎの場」として使用していきたいと考えています。

 これが私がブログを開設するに至った経緯です。まぁ、「自分のことをつらつら面白くも無く語るブログ書きたい書きたい書きたいと思っていたら昨日発狂して変な踏ん切りがついたので始めてみたぞ」というだけの話なのかもしれません。そうだね、全部が全部勢い任せですが私の人生は全てそのように流れてきたので、今さらなとこがある。

 というわけで、以上が「自分について」と「ブログ開設理由」になります。誰に見られているのかわからないのですが、とりあえずこのようなスタンスでブログをやっていこうというのを最初に表明しておきたかったのでしました。なんか真面目くさく書いたけど、つまり、「私と言うコンテンツについて書くブログ」がこちらになります、よろしくお願いします。こんなにいろいろ書いたけど、多分しばらくはあんスタの話ばっかりするんじゃないかなと思います……だって今一番ハマってるのあんスタだし、それについて語りたいこと沢山あるんだからしょうがない……。

 かなり長くなってしまったので、ここらへんで本当に終わっておきます。私ブログの平均字数って知らないんですけど、それにしても書き過ぎた感はあるので、次からはなんかもうちょっとなんとかしたいなと思います。ありがとうございました。