真鍮の止まり木

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2019年9月15日 外側のポジ、内側のネガ

ネガかポジかって言われたらネガなので割とすぐに自分の身体や精神の限界なんかを考えて身動きが取れなくなってしまうみたいなことを週に何回かやらかしたりする。

性格の傾向の話だ。

 

どちらかと言えばネガ寄りだからポジな人とは合わないのかと問われると、必ずしもそうではないと答える。ポジであるということは、ネガであることと同じくらいに美徳であり、素晴らしい気質だと思う。ただ、私にとってのポジとは「外皮」であり、自分の内面を押し隠すベールのようだと思っている。フォーマルな服装と言ってもいいかもしれない。

玄関を抜けて、陽の満ちる外へと足を踏み出し、会社へと向かう。出勤し、デスクに腰掛けるときの顔=「外面」が、たぶんきっと、私にとっての「ポジ」だ。

フォーマルに整えている自分は、そんなに好きじゃない。キャラクタライズしているという自覚があるので、余計に好きじゃないと思ってしまうところがある。

フォーマルな服装は疲れる。だから、うちの中ではそういう格好はしないし、ラフな服装でぽやっとしている方が気楽だ。

こうやって話した内容って、ややこしい気持ち由来なんだろうなと思う。ネガでいる方が楽だけれど、いつまでもネガだと気が滅入ってしまって、希死念慮と闘えなくなってしまう。

必要なときに必要な分だけ、手にしておきたくなる。それはきっと、ネガとポジ、どちらにも言えることなのかもしれない。

これはただの、用法用量の話に過ぎない。

2019年9月8日晴れ

言葉を書いている。

私はきっと、「書く」という行為がすごく好きな人間なんだろうなと思う。自分という人間のあり方について考えることがあるが、自己を定義するには、私は言葉をあまりにも知らなすぎると感じる。いつまで経っても足りないなという飢餓感があって、それがあるからこそこうやって生きていけるんだとも言える。書いても書いても、私を十全に表せているのだろうかと不安になる。そして、その不安は概ね当たっている。私は自分が理解し納得している自分自身の在りようを、正確無比に表現できていない。

自分を語るための言葉を、もしかしたら、既に用意できているのかもしれない。でも、誰にも打ち明けたくないと思ったりする。秘事にしておきたい、そうすれば、誰かからわかったふりをされることもないのだ。

昔に書いた「知ったかぶりが断罪されろ、そうじゃないと生きている意義が消え去ってしまう。」という言葉があるんだけど、今だってこんなふうに思っている。いつだって「貴方はこんなふうでしょう」と他人から決めつけられるたび、ぞっとした。貴方は、私のこと何も知らないのに、どうしてそんなふうに言えるんだろうか。雑な決めつけと印象操作だと思ってしまったら、後はもう粘つくような嫌悪しか抱けなかった。

自分だってそうなのかもしれない。誰かのことを、「こんなふうだろう」と矮小化して平気な顔をしている、なんてことがあるのかもしれない。たちが悪いのは、自覚がないことだ。自覚できれば、自省になり、自省ができれば自律を構築できるのに。

私は、「無知で居続けたい」という欲望も嫌悪しているけれど、「手頃な理解を得て終わりたい」という欲求も嫌悪している。

ところで、何かや誰かを「嫌いだ」と発言するとそれが幼稚性の証左だと捉えられる場合があるんだけど、これは一体どういう心理なんだろうか。「好き」も「嫌い」も等価であるのに、なぜ「好き」だけがいつでもどこでも誰にでも振りまいて良いとされるのかわからない。「好き」も「嫌い」も同じくらいに無害だったり有害だったりするのに。「好き」だけが無条件で善性を帯びるとでも言うんだろうか。

私をかたちづくる言葉がたくさんある。だけど、そのどれもが正しく私を規定しているとは限らない。だから取捨選択をして、公表するしかない。

ずっと、「選ばれなかった私のための言葉」のことを考えている。彼ら、あるいは彼女たちがちゃんと存在していたということを、絶対に忘れてはならない。他の誰でもなく私だけは、ずっと覚えていなければ。だって、私だけが「それ」を知っているのだから。

2019年2月17日の記録

たまに、家族から受けた言葉を思い出すことがある。大体いつも、精神状態が不安定になったとき、彼女・彼らから言われた内容を思い出す。

あれらは、「呪いの言葉」だったのだと、今ならわかるのに。あれらはすべて、私を「普通の人」に矯正するための言葉だった。ただそれだけだったのに。

「望ましい妹」という姿であれ、という圧が常にあった。つまり、愛嬌があって、容姿も可愛くて、適度に馬鹿で、適度に抜けていて、でもちゃんと言うことは聞いて、甘え上手で、いつまでも「上手く」生きられないような、そういう妹になって欲しかったのだろう。「ぼーっとしている」「人の話を全然聞かない」「周りをよく見ていない」とよく言われていた。「貴方は父親そっくりね」と言われた。うちで「父親」に似ているという烙印を押されることは、「ろくでなし」「どうしようもないヤツ」を意味していた。

本当に、今ならすべての言葉を一笑に付すことができるのに。幼くて、愚かで、年少で、女であった私は、そういった「呪いの言葉」に対抗できず、受け入れてしまっていた。

今なら「あいつらの言っていることはすべてクソだよ」と言ってあげられるのにな、と思う。あんな薄汚れた言葉ではなくて、もっともっと柔らかい言葉で、自分を肯定してあげられたのにな、と思う。本当に、そうできたら良かったのに。

悲しくなってくると、昔の記憶がフラッシュバックする。そうすると、「惨めで愚かな妹」だったときの自分を思い出してしまう。馬鹿らしいな、と頭で理解はしているが、嫌な臭いがしそうなこの感情だけはなかなか消え去ってくれない。

2018年11月11日の日記

タイトルをつけるのが面倒なので日付にします。そして、書きたいことだけを特に何の脈絡もなく吐き出します。そうすることにします。今日だけでもいいからと決めてそうすることにします。

そういう時期としか言いようがないのですが、毎日のように押し寄せる希死念慮と無気力感に苛まれる日々をおくっています。特に希死念慮との付き合いは高校生のときからなのでもう随分と長いです。

私がおおよそ希死念慮と捉えている感情は二つあって、一つは「死にたい」という能動的欲求で、もう一つは「いっそ殺してくれ」という受動的欲求です。三年くらい前は、これに「生きていてはいけない」がくっついていましたが、こちらの感情については環境の変化によって一応克服し、今はほとんど芽生えなくなっています。

「死にたい」と「殺してくれ」は頻繁に浮かんでは消え、消えてはまた浮かんでくる感情で、特に「死にたい」なんてほぼ毎日5回以上は頭の中で唱えたりしているので、慣れっこになっているところはあるんですよ。まぁあらわれるという事実に慣れても、身体も精神も全く付いていかないのでいつまでもうじうじ考え込んでしまっているわけです。

今とっている対処法は二つあります。一つ目は、「フィクションの男に自らの罪を告解させる文章などを書いてひたすら『自傷行為』に耽る」です。で、二つ目は、「自分で創り上げたフィクションの男にひたすらあやしてもらう」です。なお、どちらも人に言えたもんじゃないし、言ったところで、「ああこいつはヤバいやつだな」というレッテル貼りとしてしか機能しないだろうというのは想像にかたくありませんので、こういう場で吐き出すしかないんですよね。吐き出すと頭の中が整理できるのでなかなか効果的です。

私はどちらの対処法にもフィクションの男を「使っている」のですが、これは、「自らにとって永遠の他者であるところの『男性』に自分の欲求を言語化してもらった方が感情移入しないで済むから」です。要は、私に向かって言葉を投げかけてくる対象に好悪が何も生じないというのが心地良いからそうしているだけです。

今回もそうやって乗り切ろうとしております。そうしたら、だいたい一週間くらいは安寧を得られるはずなので。

2018年9月7日

ずっと眠いままだ。「胃に優しいものを食べてね」と、人からもらった言葉によって下腹の方がぽかぽかとしている。

ずっと何かに追われていて、目標を見失いそうになる。何をしたいのか、何をすればいいのか、わからなくなりそうだ。

近況報告2018年5月28日

ヘテロには金輪際絶対に入れ込みたくないと思って、決意のままに行動していても、特別に思う気持ちは恐らく隠せていないのだろう。

またやってしまうのか~~~という思いしかない。どうもまたやってしまいそうです。

諦めがつかねぇ話二つ

・その一

「普通」の人間になりたかった。父親や母親が納得する、「普通」の子どもというのに、なってみたかった。

ここで言っている「普通」の人間というのは、物事を何でも卒なくこなせる、失敗しても過度に落ち込んだりしない、感情の浮き沈みが激しくない、大学に進学し、定職につき、異性と結婚し、子どもを持つ、そういう人のことです。

まぁはっきり言うけど、そんな人間は、「普通」でもそんなに居ない。まずもって「物事を何でも卒なくこなせる」というのはそれだけでだいぶ特殊技能だったりするし。「異性と結婚」というのも、多数派では無くなってきている。俺は今20代なんですが、25歳~29歳の未婚率なんて、男性で72.7%、女性で61.3%ですよ。要は、俺の歳で未婚であることは、別に珍しくもなんともないわけです。

もっと根本的な話をすると、そもそも「普通」でないといけない理由なんて、何もない。男性が女性を愛する必要も、女性が男性を愛する必要も、別に何もない。定職についているかどうかで「普通」かどうかを判断するなんて、ものすごい差別的な判断方法ですよ。

私は、ただ単に、周りに否定されない「誰か」になりたかっただけだった。趣味も、性的指向も、性自認も、嗜好も、誰にも否定されたくなかった。否定されたくなかったから、否定されない「誰か」になりたかった。限りなく「完全」に近い、「理想の子ども」になりたかっただけだった。

これは私が中学生のときから患っている気の病で、「普通になりたい症候群」と勝手に名前を付けて呼んでいます。不安定な時期になると、必ず発症してしまう、持病のようなものです。私はこの持病とストレス性の腹痛にずっと悩まされてきた。あるいは、闘ってきた、と言ってもいいかもしれない。

疲れてきてしまうと、どうしても考えてしまう。過去に立ち返るのは容易で、だからこそ馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す。

 

・その二

「普通」に差別的な人間であることをもっと自覚しなきゃなんねぇ。ダセェ生き方だけはしたくない。失敗して、挫けて、下降して、墜落していくような人生を、他ならぬ私が選び取るなんて、そんなのはクソダサい。他者がダサいと言いたいわけではない。これは私の話で、私がそうやって、何度もそういう道を選ぼうとしているということが、どうしようもないくらいにダサいんだよ。自分の幼稚な部分は、あやしてやるしかない。どんな風に失敗したって構わないから、自分の矜持くらい、自分で守っていたい。