真鍮の止まり木

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近況報告2月20日

 最近の動向について。

・某スマホゲーについての記事を消しました。

・ぼちぼち外に出かけたりしていました。

・たかはしかずみくんの著作を読んで精神の安定を崩したりしていました。

・「私は任意の男二人のコミュニケーションの取り方に興味があるのだ」ということを唐突に自覚しました。

 

 なんか、こういうことをしました。特に記事の消去に関してですが、恐らく多くの人は大手検索エンジンを利用して件の記事に辿り着いていたのだろうとは予想していまして、そして、多くの人にとって私の記事とは、その人達の要求を満たしていないのだろうなと判断したので、検索ノイズになるなと思って消しました。消去に関しては、「まぁ、私の記事を読んだとしても、ある目的を持って検索して来た人達にとっては、大してタメにならない内容なのだろうな」という個人的な思いからです。

 最近は本当にリアル生活に追われていて、なかなかフィクションの文章が書けないでいます。まともに書いたのは詩2篇だけでしょうか。とにかく、やっと少し落ち着きそうなので、さっさとフィクションの文章を練ろうと思います。

 

以上、楢ういのでした。

嫉妬のコントロールを目指す

 嫉妬心、というものがあります。多分一生かかっても逃げ出せない悪夢みたいなものなんですが、それに私はずっと追われています。嫉妬はその欠片を少し抱えるだけでも煩わしいし、段々と抱えている己がみっともなく思えて来たりしてしまいます。だから、嫉妬していると自覚すると、余計に落ち込んだり卑屈に拍車がかかったりしてしまいます。なので、嫉妬なんてあんまり喜ばしい感情ではないなとどうしても思ったりもします。

 どうしようもなく嫉妬する。そういうときは往々にしてあります。例えば、友達の素敵な作品を見たとき。ああ、いいなぁ、いいなぁ。「いいなぁ」がこぽこぽと湧いてくるということはつまり、ちりちりした妬ましさがやって来るということです。ああ、今私は嫌な人間になっているなぁと苦笑したくなります。

 ただ、嫉妬する自分を見つめたときに、また別の感情も呼び起こされていることに気が付きます。

 この人はこんなことができるんだ、すごい。なんてきらきらした作品なんだろう。すごい、すごいなぁ。純粋な尊敬を喚起させる言葉が、ちかちかと脳裏を照らすのです。

 その環状の奔流を表すのなら、「羨望」が最も近い表現になるのだろうと思います。そうやって相手の作品に憧れて、感動して、それでやっぱり、「私にもこんな眩しい作品をつくれるだろうか」という可能性の模索で終了する。それが私の嫉妬が生まれてからの一連の流れであるように思われます。

 そう、結局私は、上手くなくても短くても未完成でも「失敗作」でも、なんでもいいから創作がしたいんですよね。それがもう偽らざる本音です。思いをかたちにしたい。これこそが、いつも行き着く気持ちです。これはきっと「執着」と呼んでも差し支えないはずです。ちょっと矛先が変われば、容易に「狂喜」へと変貌するたぐいの、そういう強い思いに向かうのです。

 上手くはない。それは知っています。けれども、何か創作をしたくなって、誰かの素敵な作品に巡り合うたびに嫉妬して醜くなって、憧れて胸焦がして、結局「私は書きたい、創作をしたい」という気持ちへ行き着く。どうしても、そうなってしまうものです。単純に、コアの再確認を何度も何度もやっているだけです。こうやって私は一生かけて、「創作」という行為に執着して生きていくのかもしれない。そう思っています。

 とはいえ嫉妬心は辛い。特に自覚したときなんて目も当てられないくらいです。どろどろした感情を、よりにもよって友達に向けるだなんて、なんて自分は卑しいんだろうか、と絵に描いたような卑屈で自分の首を締めてしまうことが辛いし、きついです。

 辛いしきついのだから、そういう思いからは距離を置きたいものです。だからこそ、嫉妬への向き合い方・付き合い方をどうするのかということを、もう少し練っていきたいなと思っています。

 ところで私は生活面での今年の目標を「外出・遠出の回数を増やす」にしているのですが、これには「外に出ていき見聞を広げることで、他者と自己の相対化を進め、それにより自意識に拘泥することで生まれる諸々の『しがらみ』から自己を解放する」のが狙いだったりします。

 私は、外に出ていき、いろんな刺激を受け取ることで嫉妬との付き合い方がもう少し上手になれるんじゃないかなと期待しています。そうして、もう少し気楽に創作という行為ができるようになりたいなぁと思っています。いつも憧れと執着が強すぎてから回ってしまうことが多いので。以上楢ういのでした。

 

 

年明け

 明けましておめでとうございます。

 去年一年はそれほど激情に駆られることもなく、平和に過ごせたように思います。なので、今年一年も新たな気づきを求めて、精進していきたいと考えています。

 今年の抱負は、私生活では「外出・遠出の回数を増やす」、創作方面では「一万字超えの少し長めの物語を書く」です。気張らないように少しずつ、少しずつやっていきます。

 今年もよろしくお願いします。楢ういのでした。

負傷して受診

 今日久しぶりに大きな病院に行きました。3年ぶりぐらいになります。救急外来に入ったのは、生まれて始めてでした。実際大層な病気でも怪我でもなかったのですが、何日も症状が続いていたので気になって受診に行くことにしました。

 久しぶりに病院での診察を受けに行き、休日の外来というのはある種独特な雰囲気を持っているものだなぁと思いました。診察後静かで薄っすらと暗い待合室で、薬が準備されるのを座りながら待っているとき、なんだか妙な心地がしました。平日はあれほど人でごった返しているその空間に、私と連れ以外誰もいない。聞こえるのは廊下の清掃をする作業員の足音と鈍い機械音ばかりで、人間が生み出す喧騒なんてものはどこにもない。それが、私にはとても奇妙なことのように思われたのでした。

 ところで診断の方は特に心配するほどのことでもなく、滞りなく受診は終了しました。診断結果を知って、私よりも連れの方がほっとしていて、その姿に私は喜ばしいなぁと思ったりなどしていました。

 以上、楢ういのでした。

沈んでいる

 非常に精神が不安定になっています。原因は大体わかっているんですけれど、私は本当に人から強い言葉を向けられるのに慣れていません。家族や友人ならばいい、平気です。でも、赤の他人からきつい言葉を言われることに本当に耐性がないのです。本当なら、私は自身の誤読による誤解に気づき、次から繰り返さないように改善策を立て、反省をして終わればいいのです。そこでおしまいにしてしまえばいい。なのに、まだ気持ちが引きずられっぱなしになってしまうのです。相手の人が言った指摘は指摘として受け止めて、きつい言い方の部分は「そういう言い方は酷い」と思ったらいい、そこでおしまいにしていまえば済むことなんですよね。でも、まだ座りの悪い気持ちがしています。

 私は本当にTwitter含めたSNSでのやり取りに向いていないなぁと思います。「ほどよく気にしない」ということが、この歳になっても上手くできないのが課題ですね。精進したい。

ことばことば、愛して執着する

 詩を書いています。もう1年ほどずっと。

 辛いとき、誰にも辛いと言えなくて(それはあまりにも慟哭のようで、あまりにも甲高く、そしてまたあまりにも切実であるがゆえに)、言えなくて言えなくて言えなくて、そうして我慢していたら気持ちが弾けてしまったことがありました。重ねて運の悪いことに、それを不特定多数の人々に見られてしまい、結果多くの慰めと励ましをいただくこととなりました。涙でぐちゃぐちゃの顔を晒し続けていた私は、そのとき、

「ああ、私のこの怒りも悲しみも苦しみも、他者においそれと聞かせるべきものじゃなかったんだ」

 と思いました。「大丈夫だから」「泣かないで」と言われるたびに、私のその思いは強まっていきました。ありがたい、嬉しい、こんなに優しい言葉をかけてもらえることが、ただひたすらに嬉しい。だけど、どうしようもなく悲しいし恥ずかしいし惨めだ。情けないくらいにそう思っていました。だから、私は詩を書くことにしました。言葉にして、私を癒やしたかった、労いたかった、認めてあげたかった。だから、「詩とは何か」についての学問的教養を身に着けないままに、私は詩を書き始めました。それが去年の今頃のことでした。

 あれから一年が経ち、私はまだ詩を書いています。形式に沿わない、言葉のリズムも無秩序で、意味としての繋がりも全くないわけではないけれどもだいぶ薄い、そんな詩を書き続けています。

 「型に沿わないやり方」とは「型」を身に着けてからやるものであり、そうでないやり方は型破りでもなんでもなく単に型がないだけ、要は「型無し」に過ぎない。ジャンプで連載していたSOUL CATCHER(S)という漫画があるのですが、そこに登場する川和壬獅郎くんがそういうことを言っていました。その言葉を読んだとき、「私もまた主人公の神峰と同様、『型無し』に違いない、そういう生き方をしているなぁ」と思いました。

 私が書いているものは、強いていうならば「散文詩」に分類されるのだろう、とは思っています。そうやって自分の書いているものを分類してはいるけれど、それでも迷いは生まれます。なぜなら、「散文詩をやるためには、形式に則った韻文詩あるいは定型詩と呼ばれるものを踏まえたうえでやるべきなのではないか」、とどうしても思ってしまうからです。「型」を知らずに詩を書き始めた私は、確かに「型無し」です。そんな型無しの私が、型破りとも呼ぶべき「散文詩」を書いてよいのか、そんなふうに自分の書いたものを定義してよいのか、そのように言い切ってしまってよいのか、といつまでもいつまでも疑問に思ってしまうのです。

 一年間、ずっと迷ってきましたが、未だに答えは出ていません。だったらいっそ、定型詩の書き方を学んでみるのも手なんじゃないか、なんて次の一手を考えてみたりしています。そうすれば、自分で自分の作ったものに納得がいくようになるんじゃないか。そんな気がするからです。

 やりたいことが、まだまだ尽きません。

 

 

 愛犬の死からもうすぐ1ヶ月が経とうとしておりますが、私の方はぼちぼち生活を続けています。最近ではアニメ『ユーリ!!! on ICE』を見て、「愛とは最強だなぁ」と思ったりしています。私はポジティブで救済のある愛もネガティブで破滅に向かう愛もどちらもとても愛おしいのですけれど、ユーリ!!! on ICEはどちらかと言えば前者寄りの愛を描いていて、最近気持ちがおセンチだったのもあったせいか、最新話を視聴し終わって少し泣きそうになりました。7話で、「他ならぬ私を見ていて、私が信じられない私を、貴方だけは信じていて」と自らの「愛」をまっすぐに力強く伝えた勇利の姿が、まだ印象深く残っています。

 ユーリ!!! on ICEは「愛」について余剰が広く取られたアニメだと思っているので、是非沢山の人に見てもらいたいですね。どうでもいいけど、カップリング組むならヴィク勇だと私は判断しました。現場からは以上です。楢ういのでした。

近況報告とか、不安定だとか

 お久しぶりです。楢ういのです。

 突然ですが、つい一週間ほど前に、愛犬が亡くなりました。13歳で、人間で考えたらもう随分とおじいちゃんだった、そんな子でした。

 私は、諸事情があって実家に居なかったので、その子に会えたのは、亡くなってから4日が経った後でした。真っ白な、けれど所々茶色かったり水色だったりする、遺骨に対面して、そうして、私は、ようやく、あの子が居ないのだと認めざるを得なくなりました。

 その後もまた体調を崩したりこころも不安定になったりして、まぁつまりガタガタだったわけですが、最近は、少し落ち着いてきただろう、そうであってほしいと思っています。正直わからないんですよね、あの子の行く先を不安に思っていなかった、無邪気な頃の自分が一体どんなふうに人生を生きていたのか。その再現がちっともできそうにない。

 遺骨、まだ残っているんですよ。おそらく、今週末に家族で庭に埋めることになるんでしょうけど、なんだか、まだどこか気持ちがふわふわと定まっていない感覚がしています。

 本当は、たくさん、言いたいこと、上手く言えなくてでも言いたいことが、たくさんあるんですよ、いっぱい、たくさん。でも、私は、どうやって、誰に、どういう言い方で言っていいのか、とわからなくなってしまうんです。

 あの子がいなくなったことを、多分もっと話したいはずなんですよ。悲しいよね、とか、忘れられないよね、とか、今でも泣きたくて泣きたくてしょうがないんだよ、とか。でも、音にはなってくれない。

 「あの子がいなくて、静かね」って言われて、「そうだね」としか言えなかったことが、今でも魚の小骨みたいに、喉に詰まっている感じがします。そのとき、本当に「そうだよね、寂しいよね」って鸚鵡みたいな返ししかできなかった。びっくりするくらい、家族の悲しみをなぞったような言葉しか、私には吐けなかった。そのときのことを考えてしまうのですが、そうすると、私、辛いこと、ちゃんと辛いって顔で、辛いって表情で、辛いって話し方で、語ってよかったんじゃないかって、そうやってみっともなく泣いて喚いてぐずって聞かん坊をやって、あの子を悼んでやるべきだったんじゃないかって、今でも思ってしまいます。でも、結局言いそびれてしまって、というかそもそも言う機会さえ失ってしまったので、ただ今はその蟠りをどうしてあやしてやろうとふわふわ思うだけなんですが。

 慰めてほしいわけじゃないし、何かそういう言葉を聞きたいわけでもないんです。ただ、ただ、心ここにあらずな今の状況がふわふわし過ぎている気がして、だからか、不安になってしまいます。

 ふわふわして、行き着くのはいつも「あの子のこと、大好きだったなぁ」なんて、独りよがりの思いばかりなんですよね、そういうのばかりが膨らんでしまう。

 「大切な存在の不在」を、どのようにしたら受け止めきれるんでしょう。時間が、本当に解決してくれるんでしょうか。全く、そういう答えが聞きたいんじゃないんですけど、そういうもんなんでしょうか。

 いつも以上に湿っぽい日記になりました。まぁ、これからもぼちぼちやっていきます。