真鍮の止まり木

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2019年9月8日晴れ

言葉を書いている。

私はきっと、「書く」という行為がすごく好きな人間なんだろうなと思う。自分という人間のあり方について考えることがあるが、自己を定義するには、私は言葉をあまりにも知らなすぎると感じる。いつまで経っても足りないなという飢餓感があって、それがあるからこそこうやって生きていけるんだとも言える。書いても書いても、私を十全に表せているのだろうかと不安になる。そして、その不安は概ね当たっている。私は自分が理解し納得している自分自身の在りようを、正確無比に表現できていない。

自分を語るための言葉を、もしかしたら、既に用意できているのかもしれない。でも、誰にも打ち明けたくないと思ったりする。秘事にしておきたい、そうすれば、誰かからわかったふりをされることもないのだ。

昔に書いた「知ったかぶりが断罪されろ、そうじゃないと生きている意義が消え去ってしまう。」という言葉があるんだけど、今だってこんなふうに思っている。いつだって「貴方はこんなふうでしょう」と他人から決めつけられるたび、ぞっとした。貴方は、私のこと何も知らないのに、どうしてそんなふうに言えるんだろうか。雑な決めつけと印象操作だと思ってしまったら、後はもう粘つくような嫌悪しか抱けなかった。

自分だってそうなのかもしれない。誰かのことを、「こんなふうだろう」と矮小化して平気な顔をしている、なんてことがあるのかもしれない。たちが悪いのは、自覚がないことだ。自覚できれば、自省になり、自省ができれば自律を構築できるのに。

私は、「無知で居続けたい」という欲望も嫌悪しているけれど、「手頃な理解を得て終わりたい」という欲求も嫌悪している。

ところで、何かや誰かを「嫌いだ」と発言するとそれが幼稚性の証左だと捉えられる場合があるんだけど、これは一体どういう心理なんだろうか。「好き」も「嫌い」も等価であるのに、なぜ「好き」だけがいつでもどこでも誰にでも振りまいて良いとされるのかわからない。「好き」も「嫌い」も同じくらいに無害だったり有害だったりするのに。「好き」だけが無条件で善性を帯びるとでも言うんだろうか。

私をかたちづくる言葉がたくさんある。だけど、そのどれもが正しく私を規定しているとは限らない。だから取捨選択をして、公表するしかない。

ずっと、「選ばれなかった私のための言葉」のことを考えている。彼ら、あるいは彼女たちがちゃんと存在していたということを、絶対に忘れてはならない。他の誰でもなく私だけは、ずっと覚えていなければ。だって、私だけが「それ」を知っているのだから。