真鍮の止まり木

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諦めがつかねぇ話二つ

・その一

「普通」の人間になりたかった。父親や母親が納得する、「普通」の子どもというのに、なってみたかった。

ここで言っている「普通」の人間というのは、物事を何でも卒なくこなせる、失敗しても過度に落ち込んだりしない、感情の浮き沈みが激しくない、大学に進学し、定職につき、異性と結婚し、子どもを持つ、そういう人のことです。

まぁはっきり言うけど、そんな人間は、「普通」でもそんなに居ない。まずもって「物事を何でも卒なくこなせる」というのはそれだけでだいぶ特殊技能だったりするし。「異性と結婚」というのも、多数派では無くなってきている。俺は今20代なんですが、25歳~29歳の未婚率なんて、男性で72.7%、女性で61.3%ですよ。要は、俺の歳で未婚であることは、別に珍しくもなんともないわけです。

もっと根本的な話をすると、そもそも「普通」でないといけない理由なんて、何もない。男性が女性を愛する必要も、女性が男性を愛する必要も、別に何もない。定職についているかどうかで「普通」かどうかを判断するなんて、ものすごい差別的な判断方法ですよ。

私は、ただ単に、周りに否定されない「誰か」になりたかっただけだった。趣味も、性的指向も、性自認も、嗜好も、誰にも否定されたくなかった。否定されたくなかったから、否定されない「誰か」になりたかった。限りなく「完全」に近い、「理想の子ども」になりたかっただけだった。

これは私が中学生のときから患っている気の病で、「普通になりたい症候群」と勝手に名前を付けて呼んでいます。不安定な時期になると、必ず発症してしまう、持病のようなものです。私はこの持病とストレス性の腹痛にずっと悩まされてきた。あるいは、闘ってきた、と言ってもいいかもしれない。

疲れてきてしまうと、どうしても考えてしまう。過去に立ち返るのは容易で、だからこそ馬鹿の一つ覚えみたいに繰り返す。

 

・その二

「普通」に差別的な人間であることをもっと自覚しなきゃなんねぇ。ダセェ生き方だけはしたくない。失敗して、挫けて、下降して、墜落していくような人生を、他ならぬ私が選び取るなんて、そんなのはクソダサい。他者がダサいと言いたいわけではない。これは私の話で、私がそうやって、何度もそういう道を選ぼうとしているということが、どうしようもないくらいにダサいんだよ。自分の幼稚な部分は、あやしてやるしかない。どんな風に失敗したって構わないから、自分の矜持くらい、自分で守っていたい。