真鍮の止まり木

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好ましいと望ましいの違い、もしくは現実と理想の溝

 「好きなタイプは?」と聞かれる。大体は、その質問の本意とは、「好きな異性のタイプは?」だ。

 詳しく答えるならば、私はこう答える。

「好きになりたいタイプは、男女問わず倫理観が合う人。が実際に私が特別に好きになる相手は、女性ならば仕事が出来る人、テキパキとタスクを片付ける人。過度に私を褒めそやすことは無いが、絶妙なタイミングで私の頑張りと成果を褒めてくれる人。イジり方が上手い人。そんな人に惚れる。男性ならば、顔と体型と声が好みな人、あんまり怖くない人が好き」

 いつも、ここまで言うことは無い。なぜなら、誰も「両性」に対する好みを聞きたいわけではないから。相手が知りたがっているのは、大体が私から見て「異性」に位置する人の「タイプ」だから。

 自分の好みなタイプの人ですら、説明するのが億劫な気分になる。私にとっては、留保に留保を重ねて、やっと説明できる話題なのだが、どうも相手にとっては「気楽な話題」としか捉えられていないようだ。

 

 他者とは永遠にわかり合えない。それはもう知っている。知っているが、それでも尚、私は他者とわかり合いたいのだと思う。相手と私の、重なる部分と重ならない部分の「範囲」を知りたいのだと思う。私のことを完全にわかってもらうことは不可能だ。同様に、私が誰かのことを完全に理解できることもまた、不可能だろう。

 それでも、私は、私のわかる範囲でいいから、相手のことを知りたいと思う。私ではない誰かのことを、理解し合いたいのだと思う。だって私は、「愛」を手にしたいから。「愛」のためには、相互理解、相互交渉を目的としたコミュニケーションが不可欠だから。