真鍮の止まり木

帰ってくるところ、飛び立つところ/初めての方はカテゴリーの「初めに」をどうぞ

先生僕を*してくれ

 僕にとってのささやかな「祈り」とは、先生の自室で毎朝目覚めることであった。古書の匂いに満ちた先生の寝具に身を沈め、安心の中で守られているのだと実感できるとき、確かに僕は生きているのだと知った。

 生きている、それゆえ私は此処に居てもいい。何の取り柄が無くとも、罪深い存在であろうとも。誰かの人生を損ねてしまっていたとしても。

 快いルーティンを思い返す度に、始まりの記憶が断片的に蘇る。割れたステンドグラスが床一面に散らばっている様を想像する。乱反射した光が、僕を付け狙っているかのようだ。

 清々しい明け方には必ず、深い悲しみの夜が付随する。僕にも、そんな夜があった。ああ、生涯忘れられないだろう、あの夜のことを。独り泣き濡れて、己の存在の疎ましさに耐えきれず、私は何度も何度も喉元を掻き毟った。爪先は赤黒い皮膚で汚れていた。それなのに先生は、僕の汚い手に、何も言わずに触れてくれた。

「君は君の器が解らないのだね」

「僕の器とは、一体何なのでしょうか」

「それは、『君』という名で型どられた大衆化された自己のことだ。『君』という形骸の記号的意味合いのことだ」

「よく、判りません」

「大丈夫、何の心配も要らないよ。私が、全て教えよう」

 隙間からするりと入り込む知性の声を僕の身体はすんなりと受け入れた。そして大きく震えた。ああ、思いを傾ける「偶像」は、ここに在ったのだ。僕は完全に理解し、触れてきた先生の手を、ぎゅっと強く握り締めた。

「お願いします」

 それは必然性と呼ぶべき帰結であったと断言できる。僕と先生は確約を交わしたのだ。先生は僕に、「何者」かになる方法を教授してくれると言った。そんなことを言ってくれたのは、彼だけだった。その日、先生は僕にとっての唯一無二の人となったのだ。