真鍮の止まり木

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ことばことば、愛して執着する

 詩を書いています。もう1年ほどずっと。

 辛いとき、誰にも辛いと言えなくて(それはあまりにも慟哭のようで、あまりにも甲高く、そしてまたあまりにも切実であるがゆえに)、言えなくて言えなくて言えなくて、そうして我慢していたら気持ちが弾けてしまったことがありました。重ねて運の悪いことに、それを不特定多数の人々に見られてしまい、結果多くの慰めと励ましをいただくこととなりました。涙でぐちゃぐちゃの顔を晒し続けていた私は、そのとき、

「ああ、私のこの怒りも悲しみも苦しみも、他者においそれと聞かせるべきものじゃなかったんだ」

 と思いました。「大丈夫だから」「泣かないで」と言われるたびに、私のその思いは強まっていきました。ありがたい、嬉しい、こんなに優しい言葉をかけてもらえることが、ただひたすらに嬉しい。だけど、どうしようもなく悲しいし恥ずかしいし惨めだ。情けないくらいにそう思っていました。だから、私は詩を書くことにしました。言葉にして、私を癒やしたかった、労いたかった、認めてあげたかった。だから、「詩とは何か」についての学問的教養を身に着けないままに、私は詩を書き始めました。それが去年の今頃のことでした。

 あれから一年が経ち、私はまだ詩を書いています。形式に沿わない、言葉のリズムも無秩序で、意味としての繋がりも全くないわけではないけれどもだいぶ薄い、そんな詩を書き続けています。

 「型に沿わないやり方」とは「型」を身に着けてからやるものであり、そうでないやり方は型破りでもなんでもなく単に型がないだけ、要は「型無し」に過ぎない。ジャンプで連載していたSOUL CATCHER(S)という漫画があるのですが、そこに登場する川和壬獅郎くんがそういうことを言っていました。その言葉を読んだとき、「私もまた主人公の神峰と同様、『型無し』に違いない、そういう生き方をしているなぁ」と思いました。

 私が書いているものは、強いていうならば「散文詩」に分類されるのだろう、とは思っています。そうやって自分の書いているものを分類してはいるけれど、それでも迷いは生まれます。なぜなら、「散文詩をやるためには、形式に則った韻文詩あるいは定型詩と呼ばれるものを踏まえたうえでやるべきなのではないか」、とどうしても思ってしまうからです。「型」を知らずに詩を書き始めた私は、確かに「型無し」です。そんな型無しの私が、型破りとも呼ぶべき「散文詩」を書いてよいのか、そんなふうに自分の書いたものを定義してよいのか、そのように言い切ってしまってよいのか、といつまでもいつまでも疑問に思ってしまうのです。

 一年間、ずっと迷ってきましたが、未だに答えは出ていません。だったらいっそ、定型詩の書き方を学んでみるのも手なんじゃないか、なんて次の一手を考えてみたりしています。そうすれば、自分で自分の作ったものに納得がいくようになるんじゃないか。そんな気がするからです。

 やりたいことが、まだまだ尽きません。

 

 

 愛犬の死からもうすぐ1ヶ月が経とうとしておりますが、私の方はぼちぼち生活を続けています。最近ではアニメ『ユーリ!!! on ICE』を見て、「愛とは最強だなぁ」と思ったりしています。私はポジティブで救済のある愛もネガティブで破滅に向かう愛もどちらもとても愛おしいのですけれど、ユーリ!!! on ICEはどちらかと言えば前者寄りの愛を描いていて、最近気持ちがおセンチだったのもあったせいか、最新話を視聴し終わって少し泣きそうになりました。7話で、「他ならぬ私を見ていて、私が信じられない私を、貴方だけは信じていて」と自らの「愛」をまっすぐに力強く伝えた勇利の姿が、まだ印象深く残っています。

 ユーリ!!! on ICEは「愛」について余剰が広く取られたアニメだと思っているので、是非沢山の人に見てもらいたいですね。どうでもいいけど、カップリング組むならヴィク勇だと私は判断しました。現場からは以上です。楢ういのでした。