真鍮の止まり木

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毎日承認欲求と劣等感との付き合い方を考える

 わかりやすく何かを伝えるということが、とても苦手です。相手に理解してもらえるのだろうか、私の言い方は適切だろうか、伝えようとしている言葉は平易に書かれているのか。私はいつも惑ってしまいます。

 小さい頃から、何かを伝えようとしたとき、「私はこう思っている、こう考えている」と相手に訴えたときの反応はいつも似通っていました。バリエーション豊かに、様々な言い方で彩られた反応はどれも、大体一つの意味を指していました。

「わからない」。シンプルで犯し難いほど明瞭な答えが、それでした。「貴方の言っている意味はわからないが、しかしその言い方あるいは発想は非常に面白い」というのが大意の、無遠慮で無神経な、ありふれた返答でした。

 相手のリアクションを見るたびに、未成熟の私は思っていました。もしかして、ひょっとして、この世界に、私を理解してくれる人なんて、一人もいないんじゃないのかと。私の思いなんて誰にも届かないんじゃないのか、なんて今振り返るとやや「青い」考えのように思えますが、当時の私は切実に「自分」をそのように捉えていました。今なら絶対に言えるであろう「大丈夫だよ」の一言が、私にはどうしても言えなかったからです。どうしても、自分自身にそう言ってあげることができなかったから、私はずっとそうやって拗れていました。

 わかってくれる人なんていないんだ、という私の思いの本音がどこにあったのか。結局、誰かに私のことをわかって欲しかっただけでした。「わかるよ」という言葉が聞きたかったのです。幼い私は、他者からの無上の共感と理解を求めていたのでした。他者理解を得るためには、自己を表現するしかない。ただし、「相手が理解できるような形式で、書き方で、言い方で」。私は、自己表現という言葉についてくる後ろの条件が本当に嫌で嫌で仕方ありませんでした。頭では理解できても、心も身体もついていかないのが、「相手にわかるやり方」という条件でした。本当は条件を満たすため、足掻いたり藻掻いたりしたら良かったんだろうと思います。でも、甘くて青い私はそれを途中で放棄しました。だからますます、私の認識する自己と他者が認識する「私」がズレていくような錯覚に陥っていきました。「理解してもらえない」という気持ちが、確信に変わってゆく日々を、まるで為す術もないような顔をして過ごしていました。

 「理解されない」ということを恐れて、私は「私」をひた隠しにしてきました。世間一般には「腐女子」と呼ばれる存在であること、「オタク」であること、その他もろもろ。いろいろなことを、私は仲の良かった友達にすら言えませんでした。どうせ説明しても『わからない』で済まされてしまうのだろう、もっと悪ければ、否定され、侮蔑されてしまうのだろう、という諦念が消えませんでした。だからなおのこと私は秘め事を口にしないで、いつも戯れに道化じみた発言を繰り返すようになりました。外面の私が、快活にお喋りをするようになっていったのです。

 今よりも若く、そして向こう見ずで無知で生意気で、そして切実に生きていた私はずっとそんなふうに思っていました。自分のことを、「恥ずかしい存在」なのだと疑いもなく信じていたのです。人に言えないようなことを抱えている私は恥ずかしいのだと、あってはならない存在なのだと、そう思っていたのでした。

 こうやって古書のような匂いがする過去を思い返していると、私の劣等感や自己肯定感の低さとは結局他者に理解されないことが積み重なったせいなんじゃないのかな、という気がしてきます。そうして生まれた膿が、今でもグズグズと私を苛んでいる。だから、やっぱり苦しいままなんだろう、と思います。

 とはいえ、劣等感や自己肯定感の無さに死にたくなる日々が全く変化していないのかと言われれば決してそうではなく、今現在はそういう、「わかって欲しい、でもどうせわかってもらえないだろう」という捻くれた考え方は、少し変わってきたように感じています。詳細は省きますが、去年から始まった真新しい環境に身をおいた結果として、私は久方ぶりに「自信」を手に入れました。これが、私の基本的な考え方が変わった大きな理由です。「自分は自分で、それでいいのだ」と心から宣言できるようになった、要は「私は私の存在を疑いようもなく信じられる」と言えるようになったのでした。私は私の「核」に自信を持てるようになったのです。そのおかげか、前ほど醜い自分について思い悩むことは減りました。まぁ、あくまで体感としてですが。

 自分に自信が持てるようになった、自分だって捨てたもんじゃないなと思えるようになったとはいえ、それでも不安な夜は巡ってきます。劣等感も惨めさも「恥ずかしい存在としての自己」も、何度でも蘇ってきます。失敗と間違いを繰り返す自分を責めて、「苦しめ」と言ってくる。そういう夜も、やっぱりまだあります。育った根はなかなか深いものです。

 それでも、私は生きていこうと思います。他ならぬ私がそうしたいと思ったのだから、明確な理由も見通しの良い将来もないけれど、それでも生きていこうと思ったのだから、私はそうしようと思っています。

 本当に「超私的な日記」としか言いようがないほど脈絡も趣旨もないような話をしていましたが、ここらへんで終わります。

 

 

 あ、そういえば、最近ツイッターを再開しました。ここで名乗っているのと同じ名前「楢ういの」で男二人についての益もない話を延々としております。完全壁打ち目的だけど、飽きるまでは続けてみようかと思います。最近はHiGH&LOWの話ばかりしていますが(あんスタは通信制限がかかったせいで今回のイベントは全く追えていません)、もし見かけたらよろしくしてもらえると嬉しいです。楢ういのでした。