真鍮の止まり木

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片付けたら、伽藍堂になった

 思い出したように、掃除をしていました。何もかもをすっかりと、そっくりと、綺麗にしていました。汚い雑巾を何度も絞って、汚い水を何度も洗い流して、クローゼットの中、テーブルの裏表、デスクの角、冷蔵庫の上部、いろんなところを拭いて綺麗にしていました。

 ところで、私は今週に引っ越しをします。もうずっと前から決めていたことでした。そうして、長かった独り暮らしが今、終わりを告げようとしています。何でしょうかね、この気持ちは。浮足立っている感覚がします。ひょっとすると、寂しいのかもしれません、多分、きっと。でも、あまりそうだと言える自信もないのです。だって、寂しいと思えるほど今住んでいる土地に対する強い愛着があるわけでもないですから。こちらでの生活は決して楽しいだけではありませんでしたし、辛いことも楽しいことも同程度あったし、つまらないこと遣る瀬無いこと、どうしたって届かないこと、たくさんの出来事がありましたから、そのどれもを全部取り出して来て比較検討するなんてちょっと無理があるんじゃないかと思います。

 どう言えばいいのか、無心で掃除をしていたときには決してこんなことを思わなかったのに、何もない、がらんとした部屋を見ていると、心臓の近くがざわざわする。そんな感覚があるのです。

 それはそれとして引っ越しの準備ですが、もとから衣服を除いて荷物はそれほど多くはなかったので、荷物をまとめる作業自体はそれほど苦でもなんでもありませんでした。ただ、片づけをやっていてひと段落したときに、「ああ、私はここからいなくなるんだな、消えてしまうんだな」とぼやっとした気持ちで、そう思いました。おかしな気分です、ずっと住んでいた私の家が、もうすぐそうじゃない場所へと移り変わってしまうなんて。そして私の知らない、知りようもないような誰かがこの部屋に新しく住むことになるなんて、本当に不思議なこころもちです。

 私は、遠い所でずっと独りで暮らしていました。それは私の心から望みでもありました。昔から、故郷から離れたくて仕方ありませんでした。あそこに戻りたくない、どこか遠い所へいきたい、誰も私のことなんて知らない場所へ行きたい、とそう思っていました。おとぎ話が好きだったんです、そういう、どこか知らない世界へ出かけていって、冒険をして、新しい出会いを得て、そして、幸せな結末、笑顔でハッピーエンドを迎えるような、そんなありきたりなおとぎ話が、私は好きでした。だからというわけではないですが、高校は隣の市の私立高へ、卒業後は地元から遠く離れた関東のとある大学へと、どんどんどんどん、故郷と呼ばれる地から離れていきました。そして、最後はもっと、ずっと遠くの地へと、出かけて行きました。おとぎ話のように、どこか遠い場所へ、行ったことも見たこともないような場所まで行って、私は私の生活を始めました。

 まぁ、そうは言っても私の人生はおとぎ話のように出来ているわけではなく、だからこそ私はまた地元へと舞い戻ろうとしています。遠い場所へと旅に出た主人公は故郷へ戻って「ハッピーエンド」を迎えたり、あるいは異国に安息の地を得て永住を決めたり、と何らかの決断をめでたしめでたしとなりますが、私はおとぎ話の主人公ではありません。ですから、いつ「ハッピーエンド」を迎えるのかは知りようがありませんし、そもそも「ハッピー」な「エンディング」が本当にやって来るのかすら、知りようがありません。正直な話、故郷に戻ったところで「幸せ」にはなれないと私はもう十分解っているので、すぐにまた違う場所へと旅立つものと思われます。

 夢物語のようにはならないのが、現実の、私たちが生きる人生なんじゃないかと思います。

 でも、私は、私の場合に限る話ですが、ともかく、生きてみようかな、と思っています。今いる場所に長く住んで、漠然とですが、そう思えるようになりました。新しい環境に身を置いて良かったことの一つは、こういうふうに「まぁとりあえず生きてみようか」と自然と思えるようになったことです。こんなことを言いつつ、精神が不安定になるとすぐに泣き言を言ってしまうことも多々あるのですが、ともかく「生きていこう」という、恐らくはかなり前向きなこの気持ちを持つことができたこと、そしてそれが今を生きている私の動力になっていることが、素直に喜ばしいです。

 これさえあれば生きていける、というものはいまだ見つかっていませんが、「まぁなんとかなるかな、生きていれば」という根拠も何もない自信を手に入れられたのは良かったと思っています。例え、ときには投げ出してしまいそうになり、またあるときには真逆の強迫観念で自らを奮い立たせるようなことがあるとしても、それでも、基本姿勢として「まぁとりあえず生きていこう」と思えている自分の状態が、私はそんなに嫌いではありません。「固い決意」、というほど大それたものではないこの思いですが、それでも大事に、大事にしていきたいです。

 あんスタのことを考えるとすぐに辛くなる毎日をおくっていますが、それでもぼちぼち生きていこうと思います。生きて、精一杯頭を使っていきたいですし、頑張って推しの人生について考えていきたいです。