真鍮の止まり木

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自分についてとブログ開設理由の覚え書き

※あまりにも誤字脱字と意味不明な箇所が多かったので、内容に大幅な加筆修正を入れました(20/08/2016)。結果として全体で8000字超えするシロモノが出来上がったので、暇なときにさっと目を通して貰えれば幸いです。

※誤字脱字と、最近ハマっているジャンルについて、ころころ変わるのでもういいかと思い、全部削除しました。(2022/01/22)。

 

 

 ブログをみんなに見えるかたちでやるのがもう云年ぶりくらいなのでいまいち勝手がわからないんですけど、とりあえず自分のことについて書くのが最初としてはいいだろうから、自分の紹介を淡々と書いていきたいと思います。

 自分の名前については、ネット上ではいろいろ持っているのですが、とりあえずここでは「楢ういの」と名乗ることにします。どうも初めまして、楢ういのです。

 さっそくなんですが、自分についてさっくりと話していきます。人に話すときって「自分がどういう人物なのか」というのをどう説明すればいいのかいつも迷うんですけど、他の人はどうなんだろうか。恐らく、こういう「自分が何者か」を語るときの躊躇いというか戸惑いというのは、ある程度共通の悩みなのではないかと思います。だってネットだし、不特定多数に見られる可能性がある場所だし、身バレに気をつけて「どこまでなら開示していいか」をきちんと見極めなければいけないし、さもなければ下手をすると本当に「死んでしまう」ということは大いに起こりうるわけで、そういった実例は枚挙にいとまがない。そんなわけで、私は身バレを昔から極度に恐れているので、あまりあけっぴろげには語りたくないと思っているのですが、それでもネット上に見せる自分を語るとするなら、「BLが好き(※いろいろ思うところがあって自称として「腐女子」とは極力言わないようにしています)」、「インターネット物書きマンの端くれ」ぐらいになるんじゃないかなと思います。「BL好き」というのはまぁおいておいて、「物書きマンとしての私」は別名義で某所で二次創作書いたり、詩書いたり、一次創作やってたりします。ちなみに、自分の創作における大きなテーマはBLです。その理由は、単にBLが極度に好きだからです。そうです、BLがとても好きです。とにかくBL、もっというと「男二人の関係性萌え」を拗らせてここまで育ってきました。早いもので、BLにハマってから既に10年目を迎えており、小さいときはいつかこの趣味やめるのかなと思ったけどそんなことは全くなかったです、今でも元気いっぱいBL摂取してる!いいお薬!

 過去にハマったジャンルは、以下のとおりです。

真・三國無双シリーズ/一大ジャンルとしての「三国志」、おおきく振りかぶってFate/Zero黒子のバスケハイキュー!!、BBCSherlock

 真・三國無双シリーズなんかは記憶に在る限り初めてずっぽりハマったジャンルだったように記憶しています。BLを好きになったのもちょうどこの時期なんですよね。上に挙げたもの以外にもつまみ食いしたりしていたジャンルはあるんですけど、上記のジャンルはとりわけずっぷりと浸かっていました。

 その他の趣味としては、ネットサーフィンと読書、後は音楽をひたすら聞くこと(ジャンルがかなり広範囲に渡っているのでとりあえず「ラップやレゲェ音楽以外は大抵聞く」とだけ)です。

 ここまでざーっと自分の自己紹介らしきものをしてきたんですけど、簡単に言えば「BLが好きな人間」に尽きるような気がします。まぁそうだろうな……。

 さてさて、つらつら自分の好きなジャンルとBLについて語ってきましたが、そろそろなんでブログを始めようと思ったのかについての話に移行していきますね。

 このブログ設立の経緯をざっくり言うと、「何かまとまったとりとめもない文章を書ける場所が欲しいとずっと思っていて、昨日いろいろあって号泣して辛い苦しい悲しいと喚いていた勢いで自分には新たな『仮面』が必要だと思い立ったのでブログを開設しました」という流れになります。なんだこれ、意味わからねぇな……。

 だと思うので、順を追って詳しく説明していきますね。ええっと、ことの始まりは去年の10月ごろで、このころ私は仕事の関係で精神がだいぶアレなことになりまして、救急処置として「文章を書いて吐き出せない怨嗟を昇華しよう」と思い立ち、物語と詩を書き始めるようになりました。それからアウトプットのやり方をどうしようかと某SNSで四苦八苦した結果、「自由詩あるいは散文詩」の形式が一番自分の感情を直で吐き出しやすいということに気づき、それからはもっぱら詩を書いて自分の行き場のない思いを吐き出すようになりました。なお詩の創作は今も続けており、自分のとりとめもない感情や衝動的な思いをかたちにするのに適しているなといつも思っています。白状すると、私が意欲的に詩を書こうと思えたのは詩人の最果タヒさんの著書『死んでしまう系のぼくらに』に出会ったところが大きく、なので自分の産み出した詩は最果さんの影響をかなり受けています。彼女の詩に出会ったのは生活環境が一変する直前だったのですが、今でも幸福な出会いだったと思っていますし、ときおり著書を広げて読んだりしています。非常に素晴らしく、そしてエモい詩集なので私はできる限り多くの人に読んでもらいたいと思っています。

 話が逸れました。で、仕事にも慣れある程度精神の安定がはかれるようにはなってきていたんですが、事情があって今年に入って7月に仕事をやめてしまいました。もともと長期で働く予定ではなかったので別に良かったのですが、とにかくそこから全くの暇状態になってしまいました。それで、これはいかんな、なんかしようと思って、「時間あるんだし、もっとちゃんと物語を書こう」と思い立ちました。決意してからの行動は早く、今ではほぼ毎日、1時間1000字以上を条件に物語を書いています。まぁ、日々のタスクの一環といった方が正しいのでしょうか。私は自分が書いた多くの物語は「練習」だと思っているので、基本的にはどこにも公開はしていません。あ、でも、この前久しぶりに書いた二次創作が割と長めに書けたので、これだけは某所で公開しました。多分、今後もある程度の長さを持ったタイトルをつけられるような作品はどこかで公開していこうかと思っています。というか、二次小説は絶対にすると思う、自カプの認知度を上げたいから。

 この「もっとちゃんと物語を書こう」という決意なんですが、私は大学のころ一度「フィクションを書くのは止めにしてしまおう」と思いそれからずっとまともにフィクションの物語を書いていませんでした。じゃあなぜ今書き始めることにしたのかというと、時間があったというのは大きな要因ですが、そのほかにも、自分の空想を物語という骨組みのなかに落とし込みたい欲求が強まって来ていた、というのがありました。仕事をやめ時間が有り余るほど出来たら、元からあった空想癖が物凄い勢いで加速し、その結果脳内でいくつもフィクションの世界を構築するようになったいました。で、収拾もつかないし、脳内でこねくり回すだけじゃなくてちゃんとかたちにした方が表現の幅も広がるし、理解もしやすくなるのかなと思ったのもあってまた物語を書き始めました。

 で、これにつけ加えてもう一つの理由があるのですが、それは私が長年わずらっている「文章を書くコンプレックス」をいい加減に克服したい、と考えるようになったからです。中学のときから、私はどうしても文章を書くという行為に自信が持てなくなりました。しかしその当時自分のそのコンプレックスをどうこうすることもなく、「直視したくない」という思いから見て見ぬふりと放置を決め込み、自分の文章の「良さ」というものがわからないまま年齢だけを重ねてきました。こうやっていろいろ書くようになってからも、やはり「自信を持って文章を書いている」とはまだ言えません、未熟なばかりです。

 じゃあ、なぜ今でも積極的に文章を書いているのか、と言われればその理由は簡単です。それは、自信とかプライドとか実績とかそういうのを抜きにして、私は「文章を書く」という行為が昔から大好きで大好きで仕方がなかったからです。下手だ、分かりづらい、読み辛い、そうだろう、私だってそう思います。でも私は、文章を書くということが好きで好きで大好きで、だから、どうしても諦めきれなかったのです。だからこそ、仕事をやめてすることもなくなったときに、自分の大好きなことをもう一度ちゃんと腰を据えてやってみようと思うようになりました。書きたい物語もある。だったら文章を書こう、綴った文章を連ねて物語を書こう、書き続けよう、と心に決めました。こうして一歩をまた踏み出せたことを、私は結構良かったなと思っています。というのも、昔「フィクションを書くこと」を断念した経験もあったので、なおさらこの決意を下せたことにどきどきするんですよね。良かった、もう一度この決意を持つことができて。そう思っています。

 あぁ、話が逸れてきたのでもとに戻しますね。なぜこのブログを開設したかの話をいい加減進めるべきなので、そうします。

 で、そうやって日々フィクションの文章を書いている傍ら、私は自分が日々感じる鬱屈とした思い、フィクションにはどうあっても落とし込めそうもない、リアルの自分が生み出す生々しい思いについて考えていました。こういう思いを、もっとちゃんと言葉にできたらな、そういうことをもっと気軽にできたらなと思っていました。そういう鬱屈ってどこに由来するのかというと、自分でももうよく分かっているんですけど、「自分の育ち」と「自分の境遇」と「自分の人付き合いの下手くそさ」なんですよね。そして、この自分の中の「コンプレックス」は何度も何度も湧き上がってきて、私はそれに何度となく苦しめられてきました。というか、こういうのって恐らくカウンセラーなどに相談すべき案件なんだと思うんですけど、もろもろの事情によりそれも難しく、ならば一体どうするべきか、というようなことを悩みながら、悶々とした日々をおくっていました。

 そんな私の状況に転機が訪れたのが昨夜でした。そう、昨日の夜のことでした。

 ところで、突然ですが私はかなりの頻度で精神面の不調に見舞われます。本当に凄い頻度で精神の安定が崩れるんですよね。まぁ、その後また持ち直したりして、そんなこんなでなんとか日々をおくってはいるのですが。それで、自分の場合精神の安定が崩れると、大抵涙が止まらなくなります。本当に全く止められない。そして、号泣しはじめると、大体軽い恐慌状態に陥ります。そうなると脳内に膨大な言葉が溢れかえり、身体が震えて制御が出来なくなります。とにかく泣いて、自分を責めて、更に泣いて、更に責めて、を延々と繰り返すようになります。自罰意識と自己卑下の悪循環で身動きがとれなくなるんですよね。そういうことが昨晩も起きました。昔は体力が切れて疲れて眠ると大体終わっていたんですが、最近は脳内の自分に話しかけ助力を仰ぐことでなんとか酷くならないようにしていました。で、昨日もそれをやりました。

 そうしたら、脳内である少年の声が聞こえました。彼のことはよく知っていて、というのも彼はとあるゲームに登場するキャラクターで、私の好きな男の子の一人だったからです。一応言っておくとこれは恋愛感情的なものではなく(※私は他人に恋愛感情を持ちたくないし、持つにしてもじっくり検討してみないと恋愛だと判断を下せない人間だと自認しています)、「人間として最も好ましい部類のキャラ」ぐらいの意味です。彼のような男キャラクターが好きなんですよ……付き合いたいとか友達になりたいとかそういうのじゃなくて、強い憧れを持つ対象として、彼のような人間が好きなんですよ私は。まぁそれはいいです。彼の詳細についてはここでは言及しませんが、ともかく彼が言いました。「仮面を被ればいい」と。「仮面を被ることの何が悪い。『良い子』になりたくなくて自由選択をとったはずなのに結局『良い子』面してしまうなら、完璧な『良い子』という仮面を被り、それを演じればいいのだ」と。私は思いました。「ああ、そうだな」と。それで恐慌が収まりました。

 私には強いコンプレックスがいくつもあります。それは例えば容姿とか、文章力だとか、「良い子」になりたい願望だとか、そういうものです。誰でも持っているもので、誰でも悩みうる事柄だと思います。このなかで、容姿については去年がらっと生活環境が変わった影響でさほど気にしなくなり(加えて気にかけるようなことをいう人間が近くにあまりいなかった)、文章力については「毎日練習していればそのうちそれなりのものが書けるようになる、好きなら書け、練習しろ」という力技みたいな発想でとりあえず落ち着きを見せてきました。

 ですが、この「良い子」になりたい願望だけは本当に根深くて、今までずうっと私の中に横たわっている最もややこしい問題の一つでもありました。普段はもう、自分は「良い子」になりたいわけじゃないと思っているし、自分が「良い子」になる必要なんて全くないんだと思えるようになったんですけど、なかなかうまくいかないもので、どうしても頭の片隅で自分を苦しめたり勝手な判断を下そうとする「理由」になってしまっているんですよね。「『良い子』かどうか」という価値基準を、自分のなかから完全に抹殺することができないのです。

 ここで彼が言った台詞に戻ります。そのとき、天啓のように彼の言葉を聞いた私は、彼が言った言葉の意味について考えてみることにしました。普段の私は「やりたくない」が先行して何もしないということが非常に多い人間です。そして私は常々そういうところを「直したい」と思っていました。それは、そういうところを「良い子」じゃないと思っていたからです。けれど、「良い子」になりたくないのに「良い子」になろうとしているじゃないか、その矛盾はなんなんだ、と思っていました。そう思うくせに実際は「良い子」になんてなれないんだろう、馬鹿だな、とせせら笑う自分の存在を知っていました。そうして何の行動にも移せないままに、日々を無為に過ごしてきました。

 「良い子」とは、「ラッピングされた私」のことです。それは綺麗に包装された「贈り物」「商品」であり、人に提供されうる品々は、いつだって好ましい、望ましいものとしてそこに存在しています。私はそんなふうに自らをラッピングすることを恐れていました。ラッピングした私を差し出して、包み紙を空けてみて「なんだ、こんなみすぼらしいものか」と失望されるのを恐れていました。そして一番の問題は、私は包装の仕方をよく知らないし、勉強してこようとも思わなかったということでした。私はラッピングなんて、したくなかったのです。自分を偽ってまで、誰かに見せるなんてしたくない、と思っていたから、ちっともラッピングの方法を理解しようとしてこなかったのです。ここまで書いておいて、それでも、今でも「ラッピングなんてしたくない」と思っていたりします。

 で、彼はそれを「やってみろ」と言ったんだと私は理解しました。それが偽りの自分だって、それの何が悪い。やってみればわかる、駄目だったらその仮面は自分には合っていなかったと言うだけの話なのだから。だからとにかくやってみろ、「演じること」「偽ること」は決して悪ではない、それをライフハックにしてみればいい。彼はそう言いたかったんだと思いました。私はそういう意味で理解し、そしてその言葉に納得しました。

 だから私はこのブログを始めることにしました。それは、「外で仮面を被ると決意したのだから、うちではもっと気を抜いて生きていきたい」と思ったからです。私は外で偽ろうと思います。偽って、外に出かけられるようになろう、と思っています。そのために、私はこのブログを「止まり木」にしたいと考えています。「止まり木」とはつまり「住処」であり、寝泊りをして休む私だけの居場所です。けれど、ずっとそこにはいられない。私は「止まり木」から羽ばたいていかなくてはならない。大空に羽ばたいて「狩り」をしなくてはならない。なぜなら、「止まり木」にいるだけでは実際問題生きていけないからです。外に出て買い物をしないと衣食を満たすことが出来ない。外へ働きに行かないと、お金を稼ぐこともできない。そして私は自分で自分のお金を稼げないと、死んでしまう。だから外に出なくてはならない。

 外に出るためには、「出られる自分」が必要になります。「出られる自分」とは「人に見せられる自分」と言い換えてもいいのかもしれません。それは完璧な武装でもいい、あるいは内面的な強度であってもいいと私は思っています。とにかく、「自分は外に出るに足る人間だ」と思えないと、外の世界で生きることはあまりにも困難を極めるのです。したがって、外に出るためには「仮面」を身につけなくてはならないのです、そう、少なくとも私にとってはそうなのです。だから私は、「ラッピングされた私」をつくる決心をしました。

 私の話をします。あくまで、私が思った「自分がライフハックするためには何が必要か」という話だけをします。私は、私だけの特別な「真鍮の止まり木」にずっと止まって休んでいたいけれど、そうしても満たされないということをよく理解しています。だからこそ、外に出たい、出なくてはならないのだと思っています。そして、私は外に出る準備をしたい。外へと飛び立っていくために、自分のホームでそのための「練習」をしたいと思っています。「仮面を上手に被るために」「上手く演じるために」、私には練習が必要だから。その一方で、外で生きぬくことばかりを考えていたらきっと擦り切れてしまうのだろうということもまたよくわかっています。だからこそ、私はこのブログを外に出るための「練習の場」として、それから、自分が寝泊りをする「安らぎの場」として使用していきたいと考えています。

 これが私がブログを開設するに至った経緯です。まぁ、「自分のことをつらつら面白くも無く語るブログ書きたい書きたい書きたいと思っていたら昨日発狂して変な踏ん切りがついたので始めてみたぞ」というだけの話なのかもしれません。そうだね、全部が全部勢い任せですが私の人生は全てそのように流れてきたので、今さらなとこがある。

 というわけで、以上が「自分について」と「ブログ開設理由」になります。誰に見られているのかわからないのですが、とりあえずこのようなスタンスでブログをやっていこうというのを最初に表明しておきたかったのでしました。なんか真面目くさく書いたけど、つまり、「私と言うコンテンツについて書くブログ」がこちらになります、よろしくお願いします。こんなにいろいろ書いたけど、多分しばらくはあんスタの話ばっかりするんじゃないかなと思います……だって今一番ハマってるのあんスタだし、それについて語りたいこと沢山あるんだからしょうがない……。

 かなり長くなってしまったので、ここらへんで本当に終わっておきます。私ブログの平均字数って知らないんですけど、それにしても書き過ぎた感はあるので、次からはなんかもうちょっとなんとかしたいなと思います。ありがとうございました。