真鍮の止まり木

帰ってくるところ、飛び立つところ/初めての方はカテゴリーの「初めに」をどうぞ

心がぐちゃぐちゃなままで

 会社の楽しくない飲み会で、楽しい振りをしているときの自分が滑稽で泣きたくなる。惨めな気持ちになる。恋もセックスも、彼氏も彼女も、気軽に提供できる話題としてテーブルに並べられて振る舞われる。

「美味しいね」

 そう言わないとやっていけない気持ちがした。そう思ってしまったこと、そう見えるようにしたこと、全てがみっともなくて、悲しくなった。

 他人の彼氏彼女を可愛いのか、かっこいいのか品評していく。その空間が堪らなく煩わしくて、ああ早く煙草が吸いたいなと思った。充満する煙草のにおいが私の神経を撫で擦り、張り詰めた精神の痛みを和らげてくれる瞬間を何度も夢想した。

 ただ眠りたい。ただ忘れたい。

人類を、あるいは世界の白を信じさせてくれ

神山季雄という男。

 

 神山季雄という男を知ってくれないか。私が、生涯かけて信奉すると誓った男の名前を、どうか記憶に刻んでいってくれないか。

 彼は「善良」が形を持って顕現した存在だ。

 彼の柔らかい髪が春を待つ寒風に揺れるとき、彼の人柄のように心地よい整髪の匂いが香ってくるとき、私はひとときの安穏を手にする。安穏とは私にはひとときだけでよい。彼の生存が世界の喜びであるかのように思える瞬間が、私にとっての安穏だから。

 君は語る、茫茫とした夢を。どこか宙に浮いたような夢物語に耳を傾けていると、私は君への愛で胸が満たされる。君が抱く夢の何処でも良いから、私の居場所をつくってくれないだろうかと願う。

「明日空が晴れて、お前が隣に居て、ご飯が旨くて、部屋に差し込む日差しが暖かくて。明日が、そんな日だったら良いのになと思うよ。そしてそんな明日が未来永劫続いてくれないだろうかと、俺は密かに願うよ」

 君が語る優しい言葉に、乾いた瞳が熱くなる。涙は一滴も出やしないが、私は確かに感無量の心情でいる。君が君で居る限りにおいて、私は世界に絶望したりはしないと断言するだろう。

「せんせ」

 私を無邪気に呼ぶ声に含有される無垢と善良の、なんと素晴らしい塩梅であることか。感激は幾度となく去来して、幾度となく私の肉体を温める。彼の存在は、凍えた身体を暖めるハニーレモネードのようだ。

 神山とは、「善良」な男を指す名前だ。私は彼の親友であり、生涯の友である。

 私は死の間際に至るまで、彼の名前を忘れない。そして、命尽きるそのときまで、彼の存在の全てを肯定し、彼が生きていることを望外の喜びとする。

美しい思い人を見つめて

今日、Netflixで「CAROL」を見た。女性同士の愛を描いた作品だった。人と人が、性の別なく、心が惹かれるままに愛し合い、求め合うその様がただ美しく、美しいというそれだけで、なんだかひどく泣けてしまった。

車のウィンドウ越しに、相手の姿を探す。そして、相手を見つけたら、もう視線を外すことなどできなくなる。互いが互いを求めているということが伝わってくるシーンだった。

 

日常の瑣末な出来事に気をとられ、選び取るべき夢も、朝の祈りにも似た、ささやかな望みすら零れていってしまう。自らを誤魔化して、本当の願いも希求も霞んでしまって。そういう生き方をしたかったわけじゃないのに。

人生のことを考える。来年、5年後、10年後の自分について考える。これでいいのか、と問いかける。

主人公の一人であるテレーズを見ていて、私は自分の人生について考えていた。

貴方のことが知りたい

昨日、知り合いとお酒を飲んで、美味しいものを食べてきた。

嬉しかった。楽しかった。

美味しいお酒と、美味しい食べ物がテーブルにずらりと並んでいる。

それを見ているのも嬉しかった。

家に帰って、「ああ、あの楽しい空間で、私は自分の話ばかりしてしまったようだ。もっと、相手のいろんな話に耳を傾けたかった」と思った。

相手とは、それほど親しい間柄にあるわけではない。でも、相手の誠実さや人としての柔らかさを、私は知っている。

だからこそ、もっと「対話」がしてみたかったなぁと思った。もっと相手の趣味や、思想や、仕事のスタンス、人生のスタンスなんかを、聞いてみればよかった。

お酒を飲んで、楽しい気分になると、どうしても自分の話ばかりしてしまいたがる。それだけでは駄目で、私には、相手の話を膨らませるように会話を運んでいく技術が必要だ。

そうやって、相手のことをもっと知っていけたら良いのに。

浮かれ気分のまま、帰路に着く。自宅の途中にあるコンビニで、人生で初めてタバコとライターを買った。自宅には灰皿がなくて、結局タバコは吸えていないままだ。

タバコは、ずっと買ってみたかったものの一つだった。なぜか私は、タバコを買うのはハードルが高いと思い込んでいた。けれど、実際に購入してみてわかった。タバコを買うというのは、「なんだ、こんなものなのか」と拍子抜けする程に簡単な行為だった。

タバコを買ってみたかった。そして、「何かあったとき、私には縋るものがある」という気持ちを、手に入れたかった。その思いは、今満たされている。

明日もきっと大丈夫なのだと思える。

昨日は本当に楽しい日だった。一日の最後を「楽しい!」という気分で過ごすことができて、良かった。

怒れる日々のこと

 最近の出来事について。

 四月から勤め人としての人生を歩み始めてもうすぐ半年が経とうとしているんですけれどもね、まぁもう本当に毎日ムカついたり悲しんだり怒ったり泣いたりと、精神状態によろしくないことを沢山しています。

 今日も仕事のことでいろいろ思い出しでキレていますからね。本当によろしくない。おかげ様で二次BL妄想も出来なくなりましたし、何らかのフィクションの物語に没頭するということもあまりしなくなってしまいましたよ。

 こうなると現実の逃げ場がないので、しょうがないからこことは別の極めて個人的な日記で怨嗟の日々をつらつら書いたり、某所でおもむろに詩を上げてみたりと、まぁそういうことをやってみてはいるんですが、全く気が晴れない。

 早く何かハマるものを見つけて、感情の逃げ場所をつくりたいです。今の望みはそれです。

近況報告2月20日

 最近の動向について。

・某スマホゲーについての記事を消しました。

・ぼちぼち外に出かけたりしていました。

・たかはしかずみくんの著作を読んで精神の安定を崩したりしていました。

・「私は任意の男二人のコミュニケーションの取り方に興味があるのだ」ということを唐突に自覚しました。

 

 なんか、こういうことをしました。特に記事の消去に関してですが、恐らく多くの人は大手検索エンジンを利用して件の記事に辿り着いていたのだろうとは予想していまして、そして、多くの人にとって私の記事とは、その人達の要求を満たしていないのだろうなと判断したので、検索ノイズになるなと思って消しました。消去に関しては、「まぁ、私の記事を読んだとしても、ある目的を持って検索して来た人達にとっては、大してタメにならない内容なのだろうな」という個人的な思いからです。

 最近は本当にリアル生活に追われていて、なかなかフィクションの文章が書けないでいます。まともに書いたのは詩2篇だけでしょうか。とにかく、やっと少し落ち着きそうなので、さっさとフィクションの文章を練ろうと思います。

 

以上、楢ういのでした。

嫉妬のコントロールを目指す

 嫉妬心、というものがあります。多分一生かかっても逃げ出せない悪夢みたいなものなんですが、それに私はずっと追われています。嫉妬はその欠片を少し抱えるだけでも煩わしいし、段々と抱えている己がみっともなく思えて来たりしてしまいます。だから、嫉妬していると自覚すると、余計に落ち込んだり卑屈に拍車がかかったりしてしまいます。なので、嫉妬なんてあんまり喜ばしい感情ではないなとどうしても思ったりもします。

 どうしようもなく嫉妬する。そういうときは往々にしてあります。例えば、友達の素敵な作品を見たとき。ああ、いいなぁ、いいなぁ。「いいなぁ」がこぽこぽと湧いてくるということはつまり、ちりちりした妬ましさがやって来るということです。ああ、今私は嫌な人間になっているなぁと苦笑したくなります。

 ただ、嫉妬する自分を見つめたときに、また別の感情も呼び起こされていることに気が付きます。

 この人はこんなことができるんだ、すごい。なんてきらきらした作品なんだろう。すごい、すごいなぁ。純粋な尊敬を喚起させる言葉が、ちかちかと脳裏を照らすのです。

 その感情の奔流を表すのなら、「羨望」が最も近い表現になるのだろうと思います。そうやって相手の作品に憧れて、感動して、それでやっぱり、「私にもこんな眩しい作品をつくれるだろうか」という可能性の模索で終了する。それが私の嫉妬が生まれてからの一連の流れであるように思われます。

 そう、結局私は、上手くなくても短くても未完成でも「失敗作」でも、なんでもいいから創作がしたいんですよね。それがもう偽らざる本音です。思いをかたちにしたい。これこそが、いつも行き着く気持ちです。これはきっと「執着」と呼んでも差し支えないはずです。ちょっと矛先が変われば、容易に「狂喜」へと変貌するたぐいの、そういう強い思いに向かうのです。

 上手くはない。それは知っています。けれども、何か創作をしたくなって、誰かの素敵な作品に巡り合うたびに嫉妬して醜くなって、憧れて胸焦がして、結局「私は書きたい、創作をしたい」という気持ちへ行き着く。どうしても、そうなってしまうものです。単純に、コアの再確認を何度も何度もやっているだけです。こうやって私は一生かけて、「創作」という行為に執着して生きていくのかもしれない。そう思っています。

 とはいえ嫉妬心は辛い。特に自覚したときなんて目も当てられないくらいです。どろどろした感情を、よりにもよって友達に向けるだなんて、なんて自分は卑しいんだろうか、と絵に描いたような卑屈で自分の首を締めてしまうことが辛いし、きついです。

 辛いしきついのだから、そういう思いからは距離を置きたいものです。だからこそ、嫉妬への向き合い方・付き合い方をどうするのかということを、もう少し練っていきたいなと思っています。

 ところで私は生活面での今年の目標を「外出・遠出の回数を増やす」にしているのですが、これには「外に出ていき見聞を広げることで、他者と自己の相対化を進め、それにより自意識に拘泥することで生まれる諸々の『しがらみ』から自己を解放する」のが狙いだったりします。

 私は、外に出ていき、いろんな刺激を受け取ることで嫉妬との付き合い方がもう少し上手になれるんじゃないかなと期待しています。そうして、もう少し気楽に創作という行為ができるようになりたいなぁと思っています。いつも憧れと執着が強すぎてから回ってしまうことが多いので。以上楢ういのでした。